マルグリット・デュラス
Marguerite Duras
1993年
誕生マルグリット・ドナディユ
Marguerite Donnadieu
(1914-04-04) 1914年4月4日
フランス領インドシナ連邦、サイゴン
(現 ベトナム、ホーチミン市)
死没 (1996-03-03) 1996年3月3日(81歳没)
フランス・パリ
職業作家、映画監督
国籍 フランス
主な受賞歴ゴンクール賞(1984)
オーストリア国家賞(1989)
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マルグリット・デュラス(Marguerite Duras, 1914年4月4日 - 1996年3月3日)は、フランスの小説家、脚本家、映画監督。
ヌーヴォー・ロマンの作家の一人に数えられることもあるが、キャリアの点でも作風の点でもヌーヴォー・ロマンの枠内には収まらない。 1914年、フランス領インドシナ(現ベトナム)のサイゴンに生まれる。 法律を学ぶため、1932年にフランスに帰国しパリ南部近郊ヴァンヴに居住。パリ大学で法律・数学を専攻し、政治学のディプロムを取得。1939年、ロベール・アンテルムと結婚する。1942年に初めての子供を出産後に失う。 1943年、処女作『あつかましき人々』を発表する。また、この頃、ディオニス・マスコロと知り合い、1947年にジャン・マスコロが生まれた。1950年に発表した、現地で教師をしていたが早くに夫に先立たれた母が、現地の役人にだまされ、海水に浸ってしまう土地を買わされ、それ以後、彼女達一家は貧困を余儀なくされるという一家の苦難と母の悲哀を描いた自伝的小説の『太平洋の防波堤』は、わずかの差でゴンクール賞を逃す。 1984年に発表した、インドシナに住んでいた時に知り合った華僑の青年との初めての性愛体験を描いた自伝的小説『愛人』(fr
経歴
ペンネームのデュラスは、彼女の父の出身地から取ったもの。
年譜
1943年、「あつかましき人々」(原題 Les Impudents)を発表。ディオニス・マスコロと知り合う。F・ミッテランの下でレジスタンス運動に加わる。
1944年、弟がインドシナで死去。アンテルム、強制収容所に送られる。共産党に入党する。
1946年、アンテルムと離婚。
1947年、マスコロとの息子のジャンを出産。
1958年、「モデラートカンタービレ」(原題 Moderato Cantabile)を発表。
1959年、フランスのアラン・レネ監督で、デュラスはシナリオを執筆した映画「二十四時間の情事(fr:Hiroshima mon amour)(en)」原題ヒロシマ・モナムールが公開される。
1961年、アンリ・コルピ監督映画「かくも長き不在」公開。デュラスは脚本担当。カンヌ映画祭グランプリ。
1964年、小説「ロル V. シュタインの歓喜」(Le Ravissement de Lol V. Stein)を発表。
1966年、「ラ・ミュジカ」で初めて映画監督を務める。
1968年、五月革命に参加。
1969年、≪断絶≫叢書から「破壊しに、と彼女は言う」を発表。文庫版訳者後書きによると、前作までタイトルに付記されていた"Roman"というジャンル名が本作から消えた。「私自身は、もうロマンは読めなくなっている。こんにち、バルザックやプルーストのように書くことは出来ない」というデュラスの発言も後書きに紹介されている。
1971年、堕胎処罰法の廃止を求める「343」アピールに署名する。
1980年、トゥルーヴィルの海岸沿いのマンションに住む。夏、38歳年下の青年、ヤン・アンドレアと知り合う。その後、彼と恋人関係になる。
1981年、「アウトサイド」(原題 Outside)出版
1982年、アルコール中毒で入院。
1984年、「愛人 ラマン」(原題 L'Amant)出版、ゴンクール賞を受賞。
1985年、「苦悩」(La Douleur)を発表。
1986年、「青い目、黒い髪」(原題 Les Yeux bleus, cheveux noirs)を発表。