マルク・アレン
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マルク・アレン
マルク・アレン(右)とコ・ドライバーのイルッカ・キビマキ(左)
基本情報
国籍 フィンランド
生年月日 (1954-02-15) 1954年2月15日(65歳)
出身地フィンランド
WRCでの経歴
活動時期1973 - 1993, 2001
所属チームボルボ
フォード
フィアット
ランチア
スバル
トヨタ
出走回数123
チャンピオン回数0
優勝回数19
表彰台回数56
ステージ勝利数796以上
通算獲得ポイント840
初戦1973 1000湖ラリー
初勝利1975 ポルトガルラリー
最終勝利1988 RACラリー
最終戦2001 ラリー・フィンランド
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マルク・アラン・アレン(Markku Allan Alen 1951年2月15日-)は、フィンランド人の元ラリードライバー。ヘルシンキ生まれ。1973年にスタートした世界ラリー選手権(WRC)の草創期から、1990年代初頭までを代表するラリードライバー。
目次

1 人物

2 経歴

2.1 フィアット時代(1974年?1981年)

2.2 ランチア時代(1982年?1988年)

2.3 スバル・トヨタ時代(1990年?1993年)

2.4 その後


3 世界ラリー選手権リザルト

4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

人物

身長190cm以上の長身で、何度となくWRCにおいてドライバーズタイトル争いに絡む活躍を見せたものの、結局一度もドライバーズチャンピオンを獲得できなかったことから、ラリー界における『無冠の帝王』の代表格として知られる。グラベルやターマック、さらにはその土地のイベントごとのスペシャリストが数多く存在した時代にあって、路面やイベントを選ばずに活躍するオールラウンダーの草分けと言える存在。キャリアの大半はコ・ドライバーのイルッカ・キビマキと共に過ごす。
経歴

1963年にフィンランドのアイスレースチャンピオンを獲得した父の影響でモータースポーツの世界へと足を踏み入れる。1969年にルノー8・ゴルディーニでラリーデビュー。その年に参加した1000湖ラリー(現在のラリー・フィンランド、w:Rally Finlandを参照)で9位フィニッシュすると、その才能に目を付けたフィンランド・ボルボとワークスドライバー契約を結ぶ。ボルボ・142を駆って1971年1972年の1000湖ラリーで共に3位に入賞。翌1973年は世界ラリー選手権の一戦となった同じく1000湖ラリーで、同郷の先輩ティモ・マキネンに次いで2位でフィニッシュする。
フィアット時代(1974年?1981年) フィアット・アバルト131ラリーをドライブするアレン(1978年1000湖ラリー

アレンの1000湖ラリーでのパフォーマンスはフィアットフォードの目に留まることとなる。まず1973年のRACラリー(現在のラリー・グレートブリテン)ではモータークラフトチームのフォード・エスコートRS1600で参戦。初日に転倒し一時は178位まで順位を落としながら、猛烈なプッシュで最終的には3位のリザルトを獲得する。このラリーでアレンは「ハードチャージャー」の異名を与えられ、そして、このラリーの結果、フィアットとの大型契約を結ぶこととなる。この契約には巨額の契約金のほか、個人的なフィットネスプログラムの提供といった内容も含まれており、アレンはそのような契約を結んだ最初のラリードライバーとなった。

1974年から1975年初頭にかけて、アレンはフィアット・アバルト124ラリーを駆ってWRCに参戦。速さは見せるもののリタイヤも多く、また、同じフィアット傘下のランチア・ストラトスが猛威をふるっていたこともあり、1974年のプレス・オン・リガードレスにおける2位が最高位となっていた。しかしランチアが欠場した1975年のポルトガルラリーで、アレンは序盤からチームメイトのハンヌ・ミッコラと共にワン・ツー体制を構築。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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