マルクス・リウィウス・ドルスス
M. Livius Drusus[1]
ドルススの経歴が刻まれたエロギウム(碑石)
出生不明
死没紀元前91年
出身階級プレブス(ノビレス)
氏族リウィウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム(紀元前105年頃)
手中物に関する十人裁判官
マルクス・リウィウス・ドルスス(ラテン語: Marcus Livius Drusus、 - 紀元前91年)は共和政ローマ後期の政務官。紀元前91年に護民官となって各種法案を提出したが、そのことで同盟市戦争を招いたとされる[2]。 プレブス(平民)のリウィウス氏族出身。父は紀元前112年の執政官、マルクス・リウィウス・ドルススと思われる[3]。父の女きょうだいはプブリウス・ルティリウス・ルフスと結婚している。小カエピオとは女きょうだいをお互いに妻としあった親友であったが、後に個人的諍いから敵対した[4]。 トリブヌス・ミリトゥムに就任していたことが碑石から判明しており、紀元前105年前後と考えられている[5]。続いて碑石からは、セルウィウス・トゥッリウスによって定められた、握取行為を経て得られた手中物に関する裁判での10人の裁判官の一人[6]となっていたことが分かるが、これは紀元前104年頃ではないかと考えられている[7]。 紀元前102年頃、クァエストルに就任した[8]。プロウィンキア(職能範囲)の小アシアへ派遣されたが、あえて簡素なものを身につけていたという[9]。紀元前94年頃にアエディリスに選出されたと考えられ[10]、派手な祝祭を行って民衆を楽しませたというが、同僚のレンミウスの提案に対しては冷淡に、「我々の共和国が貴官と何か関係があるのか?」と応えたという[9]。 彼が幼少の小カト兄妹を預かっていたときのエピソードを、プルタルコスが書き残している。それによると、彼はその雄弁と思慮深さから政界でもリーダー的存在だったといい[11]、マルシ人 紀元前91年、護民官に選出されると、審問所の審判人に関する法(Lex Livia iudiciaria)、土地分配法(Lex Livia agraria)、同盟市に市民権を付与する提案(Rogatio Livia de civitate sociis danda)などを打ち出した[14]。ティトゥス・リウィウスの梗概によれば、野心家の彼は、審判人の地位をエクィテスから奪おうとしていた元老院に協力して人々を煽ったとし[15]、同盟市にローマ市民権を与える代わりに彼の法案成立に協力させたものの、約束を破ったためにイタリック人が怒り、同盟市戦争の原因となったために元老院から見放され、暗殺されたという[16]。 彼は、長年にわたってプリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)に指名されていたマルクス・アエミリウス・スカウルスの派閥(factio)に属していた。おじのプブリウス・ルフスは紀元前92年、恐喝審問所(quaestio de repetundis)の属州における不当利得返還裁判で有罪判決を受けており、これがドルススの審判人構成員改革の動機で、スカウルスの支持を得ていたと考えられている[4]。この派閥には、他にも雄弁家で知られるルキウス・リキニウス・クラッススらが属しており、ドルススの巧妙な立法には彼らサポートがあったと思われる[17]。
出自
経歴
早期のキャリア
護民官
リウィウス法
Lex Livia de coloniis deducendis(植民市建設に関するリウィウス法)。紀元前122年に護民官だった彼の父が成立させた植民市建設に関する提案の復活[18]
Rogatio Livia de civitate sociis danda(同盟市の市民権付与に関するリウィウスの提案(?))。イタリック人に約束したとされるが、公布されたか疑わしい[19]