マルクス・ユニウス・ブルトゥス
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マルクス・ユニウス・ブルトゥス
M. Iunius Brutus
(Q. Sevilius Caepio Brutus)[1]
「ブルトゥス像」(ローマ国立博物館
渾名小ブルトゥス (Brutus minor)
出生紀元前85年6月
生地ローマイタリア本土
死没紀元前42年10月23日
死没地フィリッピ(属州マケドニア
出身階級ノビレス
一族ブルトゥス家(英語版)
氏族ユニウス氏族
官職造幣官(紀元前60年頃)
財務官キリキア)(紀元前53年
レガトゥス紀元前49年頃、紀元前46年
首都法務官紀元前44年
プロコンスルクレタ)(紀元前44年)
担当属州ガリア(紀元前46年)
指揮した戦争内乱の一世紀
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マルクス・ユニウス・ブルトゥス(ラテン語: Marcus Junius Brutus, 紀元前85年 - 紀元前42年10月23日)は、共和政ローマ末期の政務官

独裁官ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺(英語版)に関わった人物の1人で、現代においてはカエサル暗殺を象徴する人物として記憶されている[2]16世紀末のイングランドシェイクスピアが著した戯曲ジュリアス・シーザー』の主人公としても有名であり、英語読みのブルータスの名がよく知られる。
生涯
生い立ち

共和政を樹立した伝説的な執政官ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの末裔であり、カプア市の創設者として知られる護民官マルクス・ユニウス・ブルトゥス・マイヨル(大ブルトゥス)と、小カエピオの子女セルウィリア・カエピオニスの子としてローマに生まれる。セルウィリアと小カトーは異父姉弟(小カエピオの妻リウィアが、離婚後に大カトーの孫カトー・サロニアヌスと再婚して小カトーを儲けた)であり、小カトーは母方の叔父となる。

父はブルトゥスが生まれた時、ルキウス・コルネリウス・スッラガイウス・マリウスが率いる閥族派民衆派の内乱に巻き込まれていた。マリウス死後、マルクス・アエミリウス・レピドゥスによる蜂起に加わった父はグナエウス・ポンペイウスによって殺害されたとされる[3]。未亡人となった母セルウィリアは、マリウスの外甥にあたるガイウス・ユリウス・カエサルと親しい間柄になり、両者共に家庭を持ちながら愛人関係となった。幼くして父を失ったブルトゥスはカエサルを父親代わりに育てられた。その親密さから一部の歴史家は「カエサルがブルトゥスの実父だったのではないか」とする説を残している[4]

成長する過程でブルトゥスは母方の親族であるセルウィリウス氏族カエピオ家に預けられていた時があり、母の同父弟である叔父クィントゥス・セルウィリウス・カエピオの養子とされていた。合わせて父方のユニウス氏族から母方のセルウィリウス氏族に移り、全名もクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ・ブルトゥス(Quintus Servilius Caepio Brutus)と名乗っていた。ブルトゥス家を継いでからは元の名に戻しているが、カエサル暗殺後に前述の全名を用いている。これはユニウス氏族に並んでセルウィウス氏族も独裁者を討ち果たした祖先(ガイウス・セルウィリウス・セクトゥス・アハラ)を持っており[5][6]、共和制下での独裁を倒したという点でより近かった。ルキウス・ユニウス・ブルトゥス
元老院議員時代

彼は叔父達との絆を大切にし[7]、政治家としての一歩もキュプルス属州キプロス島)の総督として派遣された小カトーの補佐官に任命された事が始まりとなった[8]。叔父の仕事を手伝う傍ら、自らも金貸し商人として一財を成すなど商才を示した。ブルトゥスはキプロスで得た財産をローマに持ち帰ると、執政官アッピウス・クラウディウス・プルクラの娘クラウディアと結婚した[9]

閥族派議員として元老院議席を得たブルトゥスは、当時の政界で形成されていたガイウス・ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッスス第一回三頭政治に対抗する派閥に属した。恩人(カエサル)と宿敵(ポンペイウス)に挟まれる形での行動であったが、カエサルがポンペイウスとの対立の果てにルビコン川渡河に及ぶと状況は一変した。当初、カエサルも含めて周囲の人間はブルトゥスがカエサル派に付くかと考えたが、彼は仇敵と手を結んでポンペイウス軍に加わった。閥族派は元老院の決定を不服として内乱を起こしたカエサルを「共和制の敵」と見なしており、ブルトゥスは私的な復讐より公的活動での信念を優先した格好となった。

紀元前49年ローマ内戦が始まるとブルトゥスはポンペイウス軍の将官として参加し、両軍の対決となったファルサルスの戦いに従軍した。この時、カエサルは「戦場でブルトゥスを見つけたなら、決して傷つけてはならない」と異例の厳命を下した事で知られている[10]。ファルサルスでポンペイウスが惨敗すると軍内での対立が始まり、ブルトゥスもポンペイウスを見限って軍を離れた1人となった。ブルトゥスはカエサルの陣営に恭順の意思を示し、カエサルもブルトゥスを歓待して一切の罪に問わず、むしろ自身の側近に加えている。小カトーやポンペイウス、メテルス・スキピオら北アフリカ各地にそれぞれ逃亡した反カエサル派の将官を追って軍を派遣する時、ブルトゥスはカエサルからガリア総督に任命されている。

紀元前45年、カエサルによるブルトゥスへの厚遇は続き、自らの肝いりで法務官へ推挙している。同年に最初の妻クラウディアと離婚して、カエサルに追討されている小カトーの娘ポルキア・カトニス(自身の従姉妹)と再婚している[11][12]。友人であったキケロの記録によれば、この唐突とも思える行動についてブルトゥスが真意を明かさなかった為、巷では小さな争論へと発展したとされ[13]、母セルウィリアとも口論になったという[14]


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