マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス
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マルクス・ポルキウス・カト
M. Porcius M. f. Cato[1]
ペルジーノの描いた大カト。1497年頃。ペルージャのプリオリ宮内。
渾名デモステネス
出生紀元前234年
死没紀元前149年
出身階級プレプス
一族カトー
氏族ポルキウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム紀元前214年
クァエストル紀元前204年
平民按察官紀元前199年
法務官紀元前198年
執政官紀元前195年
プロコンスル紀元前194年
レガトゥス紀元前194年
トリブヌス・ミリトゥム(紀元前191年
レガトゥス(紀元前191年、189年)
監察官紀元前184年
ヒスパニア調査委員会(紀元前171年
レガトゥス(紀元前153年
アウグル(?-紀元前149年
指揮した戦争ローマ・ヒスパニア戦争
配偶者リキニア(リキニウス氏族
サロニア(奴隷)
後継者マルクス・ポルキウス・カト
サロニウス
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マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(ラテン語: M?rcus Porcius Cat? C?ns?rius、マールクス・ポルキウス・カトー・ケーンソーリウス、紀元前234年 - 紀元前149年)は共和政ローマ中期の政務官。清廉で弁舌に優れ、執政官(コンスル)、監察官(ケンソル)を務めた。曾孫のマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)と区別するため、「大カト(ラテン語: Cato maior)」とも称される。大スキピオの政敵とされるが、最初から対立していたとは考えられていない。第三次ポエニ戦争の原因の一つとされる、「カルタゴ滅ぶべし」のセリフで知られる。
生涯.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}彼は労働に耐え倹約に耐え、その鉄のような心と体は、全てを衰弱させる老年ですら寄せ付けなかった。86才にして裁判で自身を弁護し、90才にしてセルウィウス・ガルバを民衆の前に引きずり出したのだ。—リウィウス、『ローマ建国史』39.40
青年期

プレプス(平民)の家系でトゥスクルム出身の、赤みがかった髪と青みがかった瞳が特徴のノウス・ホモ(新人)であるが、カトは父を武勇で国家に功績のあった人としており、カトのコグノーメン(第三名)は元々プリスクスで、後にその功績からカトと呼ばれたという[2]。父親からは、150ユゲラ(約100エーカー、12万坪[注釈 1])の土地を受け継いだものと推測されている[4]

近所にサムニウム戦争の英雄マニウス・クリウス・デンタトゥスウィッラがあり、そこを幾度も訪れては彼の質素な暮らしぶりを鑑とし、第二次ポエニ戦争クィントゥス・ファビウス・マクシムスの下で従軍した後、ピュタゴラス派の先生に学んでからは更に質素倹約・質実剛健を旨とするようになったという[5]。ただ、本当にファビウスの下にいたのかは定かではない[6]

プルタルコスによれば、農地の接していたプブリウス・ウァレリウス・フラックスが彼の勤勉ぶりを聞き及び、ローマ市で日の目を見るように計らったといい、彼自身もその弁舌によって耳目を集め、出世したという[7]。後にデモステネスと称された[8]

紀元前217年トラシメヌス湖畔の戦いの敗戦後、ディクタトル(独裁官)に任命されたファビウス・マクシムスは、神々の怒りを鎮めるための様々な儀式を提案し、そのうちの一つ、春の生け贄は、カトが執政官を務めた紀元前195年に実行されている[9]
クルスス・ホノルム

紀元前214年トリブヌス・ミリトゥム(士官)としてシキリアで戦い[10]、恐らく紀元前211年までマルクス・クラウディウス・マルケッルスの下についていた[11]

紀元前207年、親戚のルキウス・ポルキウス・リキヌスと共に、ガイウス・クラウディウス・ネロの下でメタウルスの戦いに参加しており、この前年死去したマルケッルスに替わって、ネロは貴重な人脈となっただろう[12]

紀元前204年にはクァエストル(財務官)として大スキピオの下でアフリカに従軍している[13]。プルタルコスによれば、ファビウス・マクシムスの派閥に属し、大スキピオを敵視しており、彼がやたらと兵士に金をばらまくことを問題視してローマ市へ帰り、彼の普段の行動も指揮官としてふさわしくないと、ファビウスと共に非難したという[7]。しかしリウィウスによれば、アフリカに向かうスキピオ艦隊の左翼をガイウス・ラエリウスと共に担当しており、更に大スキピオを非難した中にカトの名はなく、学者の間では、彼らの対立を演出するための作り話と考えられている[14]


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