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マルクス・ポルキウス・カト
M. Porcius Cato[1]
カト全身像、ルーブル美術館
渾名小カト
出生紀元前95年
死没紀元前46年4月
死没地ウティカ
出身階級プレブス
一族カトー
氏族ポルキウス氏族
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(ラテン語: Marcus Porcius Cato Uticensis、 紀元前95年 - 紀元前46年4月)は、共和政ローマ期の政治家、哲学者である。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られる。ポエニ戦争の時代に活躍したマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の曾孫にあたり、曾祖父と区別するためウティカのカト(カト・ウティケンシス、Cato Uticensis)または小カト(Cato Minor)と称される。セルウィリア・カエピオニスは異父姉、マルクス・ユニウス・ブルトゥスは甥で婿に当たる。 カトは紀元前95年にマルクス・ポルキウス・カト・サロニアヌスと妻リウィアの息子として生まれたが、幼少期に両親を失った為、母方の叔父であったマルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)の許に預けられ、異父兄のクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ
生涯
幼少期・青年期
あるときドルスス宅を訪れていた同盟市戦争の指導者の一人、クィントゥス・ポッパエディウス・シロ(英語版)に、ローマ市民権獲得のために叔父に口添えするよう、逆さ吊りにされ脅されたが、幼いカトはきっぱりと断ったという。シロはカトの勇気を讃え、「彼が幼くて良かった。彼が大人だったら、我々は民会で票を獲得できなかったろう」と叔父ドルススに語ったという。その叔父もイタリック人に市民権を与える提案に失敗し、カトが4歳の時に暗殺された[2]。早くから親類者を失うという不遇な若年期を過ごしたが、異父兄カエピオとは大変仲が良かったとされる。
成人したカトは両親が残した遺産を受け取った後に叔父の家を出て、ストア派哲学と政治の研究を始めた。当初は曽祖父の大カトとは異なり穏やかな生活であったが、ここで最低限の衣服と雨に耐えることを学んだ。贅沢は避け、必要最小限の食事と、市場で簡単に手に入る安価なワインを好んで飲んだと伝えられる。これらはストア派の哲学に基づくものであった。また、ストア派のフォーラムに参加した時は、その弁論で大いに評価を受けた。
カトは最初にアエミリア・レピダ(Aemilia Lepida)と婚約したが、アエミリアは婚約を破棄してクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカ(メテッルス・スキピオ)と結婚した。その後カトはアティリア(Atilia)と結婚。アティリアとの間に息子マルクス、娘ポルキア(英語版)が生まれた。 紀元前72年、第三次奴隷戦争で執政官ルキウス・ゲッリウス・プブリコラ配下の幕僚(トリブヌス・ミリトゥム)として従軍したカエピオのために義勇軍として参戦。ゲッリウス軍は敗北を喫したが、カトは果敢さを示し一定の評価を得た。ゲッリウスは賞を与えようとしたが辞退した[3]。 紀元前67年、カトはマケドニア属州で軍務についた。トリブヌス・ミリトゥムとしてローマ軍団の一つを担当して、寝食を兵士と共にし、厳しい軍律を兵士に強いたが、軍団兵はカトを支持したと伝えられる[4]。カトがマケドニアで軍務に就いていた最中に、最愛の兄カエピオがトラキアで重篤に陥ったとの知らせを受けた。激しい荒天の中でカエピオの元へと向かったものの、到着した時には既にカエピオは死去していた。贅沢を生涯避けたカトであったが、唯一カエピオの葬儀だけは誰からも支援は受けずに自らの負担で大きな費用をかけたと伝わっている。カエピオの遺産は、カエピオの娘セルウィリア(Servilia)とカトの間で分けられた[5]。 紀元前65年にマケドニアでの軍務を終えて、シリアや小アジアを旅した後にローマへ帰還したカトは、クァエストル(財務官)に選出された。カトはクァエストルに選出されると職務に必要な知識、特に税金に関連する法を勉強し、任期中に不正に国庫の資金を流用したクァエストル経験者を告発した。また、当時ローマで最も人気のあったグナエウス・ポンペイウスに近く、かつルキウス・コルネリウス・スッラの側近であった人物を、最初に国庫資金の不正流用、次いで殺人罪で告発した。年末にカトは退任したが、ローマ市民はカトに喝采を送ったと伝わっている。カトはクァエストル辞任後も不正への監視を続けた。
キャリア初期
カティリナ事件"Cicerone denuncia Catilina"、キケロによるカティリナ弾劾演説を描いたイタリア人画家チェーザレ・マッカリ
元老院議員となったカトは頑固な性格であり、元老院の会議は全て出席した上で、会議の席で政敵を批判した。
紀元前63年、カトは翌年の護民官に選出された。この年ローマを揺るがせていたルキウス・セルギウス・カティリナの一派による国家転覆の陰謀が発覚し、元老院はカティリナへ「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を決議した。カトはこれに対処していた執政官マルクス・トゥッリウス・キケロを支援する立場を取り、キケロはローマにいたカティリナの共謀者たちを捕らえた。元老院でガイウス・ユリウス・カエサルはカティリナの共謀者が有罪であることには同意したが、死刑とすることには反対し、財産を没収した上で一連の騒動が鎮静するまで獄に繋ぐべきと論陣を張った。