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マルクス・トゥッリウス・キケロ
Marcus Tullius Cicero
(M. Tullius M. f. M. n. Cicero)
マルクス・トゥッリウス・キケロ胸像
誕生紀元前106年1月3日
アルピヌム
死没紀元前43年12月7日(満63歳没)
フォルミア
職業政治家、弁護士、哲学者他
言語古典ラテン語
国籍共和政ローマ
市民権ローマ市民権
代表作『国家について』『法律について
マルクス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日[1] - 紀元前43年12月7日[2])は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士[3]、文筆家、哲学者である。名前はキケローとも表記される。カティリーナの陰謀から国家を救うなど活躍し、入ることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、ガイウス・ユリウス・カエサルやオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが叶わなかった。
哲学者としてはラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。又、アリストテレスのトピックスに関して『構想論』『弁論家について』『トピカ』の三書を著し, 後のボエティウスによるその概念の確立に大きく貢献している(例えばトピック (論理学)参照)。
キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている[4]。
生涯
出自の祖先はアルピヌムの王の一人であるという[5]。アルピヌムは紀元前303年に投票権なき市民権を得ており、紀元前188年に完全なローマ市民権を付与された[1]。キケロの生まれた頃には、マリウス氏族、グラティディウス氏族、そしてトゥッリウス氏族がこの街で最も有力な氏族となっており[6] 、キケロの父の代からエクィテスの地位を得ていた[7]。
キケロの祖父は紀元前115年にマルクス・アエミリウス・スカウルスに賞賛されたことがあり、キケロが10才の頃、家族と共にローマへ移り住んだ後、恐らくその伝手もあって、ルキウス・リキニウス・クラッスス、マルクス・アントニウス・オラトル、スカエウォラ・アウグル、スカエウォラ・ポンティフェクスといった当代一の雄弁家の従者として学ぶことができた[8]。
キケロというコグノーメンは、「ヒヨコマメ(Cicer)」から来ているが、これは彼の祖先の鼻にイボがあったからだという[7]。キケロは、若い頃に友人から「無名の家名(キケロ家)を避けた方がよい」とアドバイスを受けたが、「私自身の手で、キケロ家をスキピオ家やカトゥルス家より有名にしてみせる」と語ったという[9]。キケロは幼い頃から負けず嫌いで、文筆活動や哲学は余興に過ぎず、政治に関わることこそが美徳であり[10]、政治家として名を揚げることこそが本望であった[11]。 17才となったキケロは、紀元前89年の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの下で軍務に就き、翌紀元前88年にはルキウス・コルネリウス・スッラの下で従軍した。ポンペイウスの配下であった時、全く兵士に向いていないので陣地で留守番をさせられていたという[12]。軍務を終えるとすぐに弁論の勉強を再開した。この頃、ポプラレスの英雄ガイウス・マリウスと組んでいた護民官、プブリウス・スルピキウス・ルフス
青年期
ポントゥス王ミトリダテス6世によるギリシア侵攻を受け、スッラがインペリウムを得て第一次ミトリダテス戦争を始めると、アテナイから亡命してきたアカデメイアの学長、新アカデメイア派のラリッサのフィロンから徹底的懐疑主義[14]を学ぶ[13]。他にもエピクロス派のパイドロス(英語版)や、ストア派のディオドトス(英語版)らの影響を受け[15]、弁論家ポセイドニオスも師の一人として名を挙げている[14]。21才の頃[10]、クセノポンの『家政論』をラテン語に翻訳したと語っている[16]。また、この間に弁論に関する理論をまとめた『構想論(De inventione)』を書き上げていた[17]。 キケロのレトリックに関する記述は7編残っているが[18]、『構想論』はその最初の著作でもあり、キケロにとっての初めての著作でもある[19]。キケロはレトリックを5つの部門に分けて考えており、これはその第1部門を取り扱う[20]。キケロは弁論術をまず定義しているが、アリストテレスの影響が強く見受けられる[21]。また弁論の取り扱う題材についても、アリストテレスの定義に従って、限定的な題材とし、それを「儀式弁論」「議会弁論」「法廷弁論」の三種に分類した[22]。そしてレトリックの5つの段階を、「発見(構想)」「配置」「修辞」「暗記」「実演」とし、この著作ではその最初の構想段階を取り扱ったところで中断しており、そのため『構想論』と呼称されている[23]。構想を立てることと題材を発見することは密接に関わっているため、『発見・構想論』とも訳される[18]。 この芸術(弁論術)に誰よりも多くの支えと彩りを提供してくれたアリストテレスによれば、 キケロ『構想論(De inventione)』1.5 紀元前81年、25才で弁護士としての活動を始めたが、彼の師であったルキウス・クラッススは20才、後にライバルとなるクィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルスは19才でデビューしており、あまり早いデビューとは言えなかった[24]。「私は初めて私的な、そして公的な訴訟に関わることにした。それによって何かを得るためでなく、今まで得てきたものを試すために[25]」。 彼のデビュー戦は原告のプブリウス・クィンクティウス側に立っての占有を巡る民事訴訟[26]であった。被告のセクストゥス・ナエウィウスは、ケンソル(監察官)経験者でもあったルキウス・マルキウス・ピリップスを後ろ盾にし、代理人として雄弁家のホルタルスが立ち、更に事前審理ではスッラの息のかかったプラエトル・ウルバヌス(首都法務官)のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラがナエウィウス寄りの仮判決を下していた。
『構想論』(前91?87年)
弁論家の義務は、以下の主題に精通することであるという。
感情表現、審議、そして、裁判の3種である。
弁護士デビュー
『プブリウス・クィンクティウス弁護』(前81年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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