マルクス・アエミリウス・レピドゥス_(紀元前187年の執政官)
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マルクス・アエミリウス・レピドゥス
M. Aemilius M. f. M. n. Lepidus
レピドゥスが建設したレッジョ・エミリア(レギウム・レピディ)の市役所のレピドゥス像
出生不明
死没紀元前152年
出身階級パトリキ
氏族アエミリウス氏族
官職按察官紀元前193年
法務官紀元前191年
前法務官(紀元前190年
執政官紀元前187年175年
監察官紀元前179年
最高神祇官紀元前180年-152年
指揮した戦争ローマ・シリア戦争
対リグリア戦争
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マルクス・アエミリウス・レピドゥス(ラテン語: Marcus Aemilius Lepidus、? - 紀元前152年)は、共和政ローマパトリキ貴族)出身の政務官紀元前187年紀元前175年執政官(コンスル)、紀元前179年監察官(ケンソル)、紀元前180年から没するまでは最高神祇官(ポンティフェクス・マクシムス)を務めた。執政官時代、リグリアに対して何度も勝利を収めている。筆頭元老院議員に6回連続で(30年間)記録されており、死ぬまでの数十年間はローマで最も影響力のある政治家の一人であった。
出自

レピドゥスの属するアエミリウス氏族は、古代の歴史家によると、ローマで最も古い家系とされている[1]。最古の18部族の一つが、この氏族名を名乗った[2]。その祖先はピタゴラス[1]、あるいは第二代ローマ王ヌマ・ポンピリウス[3]ともされる。プルタルコスが引用している一説ではアイネイアースラウィーニアの間の娘がアエミリアで、初代ローマ王ロームルスを生んだとしている(通説ではレア・シルウィアが母)[4][5]

アエミリウス氏族のうち、レピドゥスのコグノーメン(第三名、家族名)を持つもので最初に執政官となったのは、紀元前285年マルクス・アエミリウス・レピドゥスである[6]。レピドゥスの祖父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクス、祖父も同じくマルクスである[7]。父は紀元前218年法務官(プラエトル)に、祖父は紀元前232年に執政官に就任している[8]
経歴
青年期

レピドゥスに関する最初の記録は紀元前201年にさかのぼる[9]。この年、元老院は元ケンソルのガイウス・クラウディウス・ネロプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスプトレマイオス朝エジプトに派遣しているが、レピドゥスもその一員であった[10]。この使節団の公式の目的は、同盟国であるエジプトのプトレマイオス5世第二次ポエニ戦争の勝利を報告することであったが、非公式の目的はマケドニアとの戦争が起こった場合のエジプトの支援を得ることであった[11][12]。マケドニアのピリッポス5世はこのときペルガモンロドスと戦争を行っており、ローマはすでに最後通牒を送っていた。使節団がエジプトから戻ったときには、ピリッポス5世は重要な都市であるアビドス(en)を包囲していた。レピドゥスはピリッポスの言い分を聞くために派遣された。リウィウスポリュビオスによると、レピドゥスはピリッポスに対して何故戦争を開始したのかと厳しく問い詰めた。対してピリッポスは「もしローマがマケドニアを攻撃するつもりなら、高い代償を払うことになるだろう」と返答した[13][14]。結果として第二次マケドニア戦争が勃発する。
クルスス・ホノルムエンポリウム近くのポルティクス・アエミリアの遺跡

紀元前199年、レピドゥスはセルウィウス・スルピキウス・ガルバの死去に伴って神祇官(ポンティフェクス)に選ばれた。紀元前193年[15](紀元前192年説[16]もある)、レピドゥスはアエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した。同僚は親戚のルキウス・アエミリウス・パウルス(後のマケドニクス)であった。両者は、牧畜業者が公有地を不正に使用しているとして[17]非難し、彼らから徴収した罰金でユーピテル神殿を金メッキした楯で装飾した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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