マルクス・アウレリウス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

「マルクス・アウレリウス」はこの項目へ転送されています。その他の人物については「アウレリウス」をご覧ください。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス
Marcus Aurelius Antoninus
ローマ皇帝
アウレリウス胸像(メトロポリタン美術館所蔵)
在位161年3月8日 - 169年(ウェルス帝と共同)
169年 - 177年(単独統治)
177年 - 180年3月17日コンモドゥス帝と共同)

全名カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス
Caesar Marcus Aurelius Antoninus Augustus
出生121年4月26日
ローマ
死去 (180-03-17) 180年3月17日(58歳没)
ウィンドボナ、もしくはシルミウム
埋葬ハドリアヌス廟
継承ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス
配偶者小ファウスティナ
子女コンモドゥス
ルキッラ(英語版)
ファディラ
小コルニフィキア
家名アントニヌス家
王朝ネルウァ=アントニヌス朝
父親マルクス・アンニウス・ウェルス
母親ドミティア・ルキッラ
テンプレートを表示

マルクス・アウレリウス・アントニヌス(古典ラテン語:Marcus Aurelius Antoninus [notes 1]121年4月26日 - 180年3月17日[3])は、第16代ローマ皇帝である。五賢帝最後の皇帝。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの后妃ファウスティナ・マイヨル(大ファウスティナ)の甥で先帝の外戚にあたり、また大ファウスティナはハドリアヌストラヤヌスの傍系血族でもある。

外叔父アントニヌスの皇女で自身の従姉妹であるファウスティナ・ミノル(小ファウスティナ)と結婚して帝位を継承したが、共同皇帝としてハドリアヌスの重臣の子ルキウス・ウェルスが立てられていた。アウレリウスは小ファウスティナとの長女ルキッラ(英語版)を嫁がせて両皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが崩御した事で単独の皇帝となった。

ストア哲学などの学識に長け、良く国を治めた事からネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスに並ぶ皇帝(五賢帝)と評された。対外政策ではパルティアとの戦争に勝利を収めたが、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人サルマティア人などへの遠征(マルコマンニ戦争)は長期戦となり、国力を疲弊させ、自らも陣中で崩御した。

軍事よりも学問を好んだ皇帝という姿は、彼の著作である『自省録』への評価を通じて今日も維持されている。これは『国家』を執筆したプラトンの時代から学識者にとって理想とされた「哲人君主」の実現例と見なされているからである。

また、『後漢書』に見られる大秦国王の安敦とは、彼のことだとされている[4]
歴史資料

マルクス・アウレリウスの人生と治世に関する資料は疎らで、信憑性の薄い物が多く含まれている。例えば主要な情報源とされる「ローマ皇帝群像」は多くの問題を持った資料であり、引用元の資料よりも価値は低い[5]。ハドリアヌスからアウレリウスまでの評伝は作中でも比較的に信憑性があるが、それでもアエリウス・ウェルスガイウス・アウィディウス・カッシウスの評伝は完全な捏造であると見られる[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:221 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef