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出典検索?: "マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ"
マルガレーテ・テレジア
Margarete Theresia
神聖ローマ皇后
イーペレン画、1667年
在位1666年12月12日 - 1673年3月12日
別称号ハンガリー王妃
ボヘミア王妃
出生 (1651-07-12) 1651年7月12日
スペイン帝国、マドリード、アルカサル
死去 (1673-03-12) 1673年3月12日(21歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国、ウィーン、ホーフブルク宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂
結婚1666年12月12日 ウィーン
配偶者レオポルト1世
子女マリア・アントニア
家名スペイン・ハプスブルク家
父親スペイン王フェリペ4世
母親マリアナ・デ・アウストリア
宗教キリスト教カトリック教会
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マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(西:Margarita Teresa de Espana, 1651年7月12日、マドリード - 1673年3月12日、ウィーン)は、スペイン王フェリペ4世の娘で、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の最初の皇后。ドイツ語名はマルガレーテ・テレジア・フォン・シュパーニエン(Margarete Theresia von Spanien)。フランス王ルイ14世妃マリア・テレサは異母姉、スペイン・ハプスブルク朝最後の王カルロス2世は同母弟、ヨーゼフ1世とカール6世は死後に後妻が産んだ義理の子、マリア・テレジアは義理の孫、マリー・アントワネットは義理の曾孫、フランツ2世は義理の玄孫、フランツ・ヨーゼフ1世は義理の昆孫、フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベートは義理の義理の昆孫である。
ディエゴ・ベラスケスの描いた可憐な肖像画でも知られる。
生涯2歳ごろの王女(ベラスケス画、ルーブル美術館収蔵)
フェリペ4世とその2番目の妻で神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の娘であるマリアナ(マリア・アンナ)の間の第1子、長女として生まれた[1]。両親は実の伯父と姪の間柄(叔姪婚)で、マリアナは6人の子供を産んだが、成育したのはマルガリータと末息子のカルロスだけだった。『マルガリータ・テレサ王女』(10歳、デル・マーソ画、プラド美術館収蔵)
マルガリータは父王の大のお気に入りで、フェリペ4世は手紙の中でマルガリータを「私の喜び」と呼び、ディエゴ・ベラスケスらの宮廷画家たちに彼女の肖像画を多く描かせた。マルガリータには弟のカルロスとは違い、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家との間で幾重にも結ばれてきた近親婚の大きな悪影響は見られなかった。5歳の時に母方の祖父フェルディナント3世が死去した。婚礼を前に、父王の喪に服す王女(15歳、デル・マーソ画、プラド美術館収蔵)
マルガリータは長い結婚交渉の末、両ハプスブルク家の間の伝統的な政略結婚に則り、1666年の復活祭の日に母親の実弟で11歳年上の神聖ローマ皇帝レオポルト1世と代理結婚式を挙げた。同年12月、15歳の花嫁マルガリータがウィーンに輿入れすると、両人そろっての正式な結婚式が盛大に執り行われた。真冬に行われた皇帝の結婚式の祝賀ムードは、春先の四旬節にいたるまで続いた。
結婚式に際しては、作曲家アントニオ・チェスティによるオペラ『黄金の林檎(英語版)』(Il pomo d'oro)が上演されたが、これはアルプス以北で行われた最初のオペラ公演だったと言われている。レオポルト1世はこのオペラ上演のために、ホーフブルク宮殿の隣に自分専用の劇場を築かせた。9時間の上演時間と、そのために費やされた10万グルデンもの出費は、長い間ヨーロッパ中の語り草となった。このオペラの一部の台本は、音楽好きな皇帝が新妻のために自分で執筆したものであった。
マルガリータは夫である皇帝を「叔父上さま」(Onkel)と呼び、皇帝は妻をドイツ語の愛称で「グレートル」(Gretl)と呼んでいた。2人の縁組は長く計画されていたものであり、スペイン宮廷は「お見合い」の代わりに、ベラスケスに描かせたマルガリータの3点の肖像画をウィーン宮廷に送っている。それぞれマルガリータが3歳、5歳、8歳の時の肖像であるが、これらの絵画は現在はウィーンの美術史美術館に所蔵されている。
マルガリータは非常に信心深い女性で、自分が何度も流産するのはユダヤ人が近くにいるせいだと考え、皇帝を説き伏せてウィーンからユダヤ人を追放している[注釈 1]。また彼女は、夫と音楽に対する関心を共有していた。結婚生活は幸福で、皇帝夫妻は6年間の結婚生活で6人の子供を授かったが[2]、成育したのは娘のマリア・アントニア(1669年 - 1692年)だけであった。