マルカントワーヌ・シャルパンティエ
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マルカントワーヌ・シャルパンティエ
Marc-Antoine Charpentier

基本情報
生誕1643年
フランス王国パリまたはその郊外
死没1704年2月24日
フランス王国パリ
ジャンル宗教曲
職業作曲家
活動期間盛期バロック音楽
マルカントワーヌ・シャルパンティエ (1682)

ポータル クラシック音楽

マルカントワーヌ・シャルパンティエまたはマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643年 - 1704年2月24日)はフランス盛期バロック音楽を代表する作曲家。多作家で洗練された作曲家であり、ジャン=バティスト・リュリの同時代人である。フランス宮廷とほとんど関連を持たず、現代になって重要性が再認識されたため、生涯や経歴に不明な点が多い。遺された作品では、特に宗教音楽を重要視されている。
目次

1 生涯

2 作品

2.1 歌劇・舞台音楽

2.2 宗教悲劇

2.3 田園劇

2.4 イタリア語による小田園劇

2.5 牧歌劇

2.6 抒情悲劇

2.7 コメディ

2.8 コメディ=バレ(舞踊喜劇)

2.9 バレエ音楽

2.10 ディヴェルティスマン

2.11 幕間劇

2.12 ソナタ

2.13 エール、セレナータなど

2.14 世俗モテット

2.15 宗教曲


3 その他

4 関連項目

5 外部リンク

生涯

パリまたはパリ郊外に生まれる。生い立ちについてはほとんど不明であり、生年月日でさえ謎である。「青年」時代にローマに留学したことは明らかだが、その期間は1662年から1667年の間であったと推測される。ローマでジャコモ・カリッシミに師事。古い伝説によると、画学生としてローマに留学したところ、老大家のカリッシミに楽才を見出されたというが、文献では画才があったという裏づけはない。同時代のイタリアの習慣を熟知しており、それをフランスに持ち帰ったというのは確かである。

おそらく、フランスに帰ってギーズ公爵夫人マリー(Marie de Guise, 1615年 - 1688年)に、楽長および歌手として、彼女の没する1688年まで仕えた。この間に、相当数の劇的な宗教曲(詩篇唱、讃歌、マニフィカトミサ曲モテット)を作曲した。シャルパンティエはモテットを、「オラトリオ」と混同して呼んでいた。

1672年ごろに、ジャン=バティスト・リュリと不和になったモリエールと協力関係に入る。1680年代は、パリのイエズス会系のサン・ルイ教会に楽長として奉職。さらに、シャルトル公フィリップの音楽教師を勤める。1698年にはサント・シャペルより楽長に任命され、1704年に没するまでその地位にあった。この時期の最も有名な作品が、《テ・デウム ニ長調》(H 146)と《聖母被昇天ミサ曲 Mass "Assumpta Est Maria" 》(H 11)である。
作品 写本 ルソン・ド・テネーブル


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