マルカム4世_(スコットランド王)
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マルカム4世
Malcom IV
スコットランド国王
マルカム4世(右)とデイヴィッド1世
在位1153年 - 1165年

出生 (1142-03-20) 1142年3月20日
スコットランド王国
死去 (1165-12-09) 1165年12月9日(23歳没)
スコットランド王国ジェドバラ
埋葬 スコットランド王国、ダンファームリン・アビー
家名アサル家
王朝アサル朝
父親ハンティンドン伯ヘンリー
母親エイダ・ド・ワーレン
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マルカム4世(Malcom IV, 1142年3月20日 - 1165年12月9日)は、スコットランド(在位:1153年 - 1165年)。デイヴィッド1世の次男ハンティンドン伯ヘンリーサリー伯爵ウィリアム・ド・ワーレン(英語版)の娘エイダの長男。ウィリアム1世とハンティンドン伯デイヴィッドの兄。「the Maiden(未婚王)」と呼ばれた[1][2][3]
生涯

1153年に祖父が没したとき、世嗣だった父が前年に死去していたために、マルカム4世は11歳で王位についた[1]

即位早々にノルウェーエイステイン2世が北東部のアバディーンを襲い、北部ハイランドの豪族達が反旗を翻した。また、イングランドヘンリー2世はデイヴィッド1世が奪ったイングランド北部の返還を要求し、マルカム4世はこれに屈して、1157年にハンティンドン伯領と引き換えにノーサンバーランドカンバーランド・ウェストモーランド(英語版)の3州領有権を放棄した。1159年にはヘンリー2世のフランストゥールーズ伯領遠征に参加して弟のウィリアム(後のウィリアム1世)共々騎士に叙任されたが、3州の領主だったウィリアムはヘンリー2世の圧力で没収された恨みを忘れず、奪還に執念を燃やすことになる[3][4]

マルカム4世のイングランドに対する態度を屈辱と反発したスコットランド貴族たちは南西部のギャロウェイ(英語版)などで反乱を起こしたが、成長したマルカム4世は反乱に立ち向かい、1160年から1164年にかけて祖父が登用したノルマン人貴族に北部を討伐させ、ギャロウェイも併合して豪族たちを制圧した。しかし、翌1165年に病を得て23歳で没した。独身で子がなかったため、王位は弟のウィリアム1世が継いだ[3][5]
脚注^ a b 森、P72。
^ トランター、P75。
^ a b c 松村、P447。
^ 森、P72 - P73、青山、P333、トランター、P76、朝治、P235、P237。
^ 森、P73 - P74、青山、P331、P333、トランター、P76 - P77。

参考文献

森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。

青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史?中世-』山川出版社、1991年。

ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。

松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。

朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄編著『中世英仏関係史1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年。

関連項目

スクーン (スコットランド)

フォークランド (スコットランド)










スコットランド王(1153年 - 1165年)
アルピン朝

ケネス1世848-858

ドナルド1世(英語版)859-863

コンスタンティン1世(英語版)863-877

エイ(英語版)877-878

ギリック(英語版)878-889

ヨーカ(英語版)878-889

ドナルド2世889-900

コンスタンティン2世(英語版)900-942

マルカム1世(英語版)942-954

インダルフ(英語版)954-962

ダフ(英語版)962-967

カリン(英語版)967-971

ケネス2世(英語版)971-995

コンスタンティン3世(英語版)995-997

ケネス3世(英語版)997-1005

マルカム2世1005-1034

アサル朝

ダンカン1世1034-1040

マリ朝

マクベス1040-1057

ルーラッハ1057-1058

アサル朝

マルカム3世1058-1093

ドナルド3世1093-1094

ダンカン2世1094

ドナルド3世1094-1097


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