2012年マリ軍事クーデター
マリ北部紛争 (2012年)中
赤枠の部分がMNLA支配下にあると主張する地域(通称アザワド)。トゥアレグ族との戦闘に終止符を打てない政権に対する不満によりクーデターが発生した
時2012年3月21日 - 2012年4月8日
場所 マリ
結果
首都バマコで銃撃戦、反乱軍が大統領府と国営放送局を掌握
反乱軍は権力掌握と憲法停止を宣言
混乱に乗じて反政府勢力がアザワドの独立を宣言
反乱軍は議会議長への権限移譲を表明
衝突した勢力
マリ共和国政府 民主主義制定のための全国委員会
2012年マリ軍事クーデター(マリぐんじクーデター)は、2012年3月21日、マリ共和国の首都バマコにて発生した軍によるクーデターである。 マリ共和国では1960年の独立以降、遊牧民トゥアレグ族による反政府闘争が続いてきた[1]。トゥアレグ族は2011年リビア内戦に参加したことにより戦闘経験を積んだほか、高性能の武器をマリに持ち帰ることにより軍事力を強化した[2]。反政府組織・アザワド解放民族運動 (MNLA)のもと組織化されたトゥアレグ族は2012年1月中旬より新たに独立を求め蜂起し、政府軍との紛争(トゥアレグ反乱 (2012年))が勃発したが、軍内部からは武器や資材が不足しているといった不満が生じ、また多くの政府軍兵士が死亡もしくはトゥアレグ族勢力に拘束されていると思われたことから、政府の対応に不満が溜まっていった[1]。 2012年、新たに国防大臣に就任したサディオ・ガサマが不満を募らせている兵士のために3月21日、バマコ郊外のクリコロ州カチの軍事キャンプを訪れた。その場で弾薬など武器の充実などを求められたがガサマは色よい返事をせず、このため兵士たちは空砲を撃つなど抗議を開始。バマコに向けて進撃を始め、午後4時半には国営放送局を占拠。大統領府も攻撃し、警備隊との間で銃撃戦が勃発した[1][3]。スメイル・ブベイエ・マイガ外務大臣や内務大臣など複数人の閣僚が拘束され、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領は銃撃戦開始後に大統領府を脱出したとされる一方で、大統領府にとどまっているとも報じられるなど[1][3]消息は不明であったが、3月23日にアフリカ連合のジャン・ピン委員会委員長はトゥーレは無事であると述べた[4]。一連の騒乱で38人が怪我をし病院へと運ばれた[5]。 3月22日早朝、反政府勢力は自らを民主主義制定のための全国委員会
背景
推移アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ(2011年)
この混乱に乗じてMNLAはさらに北部攻勢を進め、4月6日に北部をアザワド(右上地図中の赤枠領域)とするアザワド独立宣言を発表[10]。対応を迫られた反乱軍は同日、制裁を課してきた西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)と制裁解除を条件に、実権をディオンクンダ・トラオレ(英語版)国会議長に移譲することで合意[11][12]。政権の座を追われていたトゥーレは4月8日に正式に大統領の辞任を表明し[13]、トラオレは4月12日に暫定大統領に就任。マリ共和国はクーデター発生22日後に民政に復帰した[14]。
国外の反応