マリ王国
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赤枠内がマリ帝国の版図

マリ帝国(マリていこく、1230年代 - 1645年)又はマリ王国は、中世西アフリカサヘル地帯に栄えた王国の1つである[1]。王権の担い手が誰であったかについては諸説あるが、少なくともマンデ人(英語版)だと考えられている。現代のマンディンカ人はマリ帝国人の末裔というアイデンティティを持った民族集団である。マリ王国の歴史についてはわかっていないことが多く、首都がどこにあったのかすら確定的な説はない[2][3]。13世紀中ごろに英雄スンジャタ・ケイタが現れ、支配域の帝国的膨張を見た[2]。支配域の膨張は交易を盛んにし、14世紀中ごろにマンサ・ムーサ王が派手なメッカ巡礼を行うなど王国は最盛期を迎えた[2]。イスラームとマリとの関係について、マリが「イスラーム国家」であったか否か、いつごろからどのような人々がイスラームを受容していたかなどについて諸説あるが、少なくとも14世紀中ごろには「イスラーム国家」の外観を備えていた。現在のマリ共和国の国号はマリ帝国に由来する。スンジャタがマリに服属ないし同盟した各クランの代表を集めて定めた憲章(英語版)が世代を超えて受け継がれ、2009年にユネスコが「人類の口承及び無形遺産の傑作」宣言をした。
研究史

歴史学は19世紀に誕生した比較的新しい学問であるが、当該19世紀中ごろに哲学者ヘーゲルは『歴史哲学講義』の中で、「アフリカは人類の歴史に寄与したことがない」などと述べた[4]。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人は森の中の子供同然で、人類の発展の歴史の埒外にあった[4]。こうしたヘーゲルのアフリカ観は、以後の西洋知識人のブラックアフリカ観に影響を与えた[4]。19世紀以後に最初に中世マリの歴史を研究し始めた研究者はモリス・ドゥラフォスシャルル・モンテイユなど、植民地経営のエコシステムの中で実務官僚等として暮らすセミ・プロが主体であった。ドゥラフォスは1912年にイブン・ハルドゥーンの『イバルの書』を中心としたアラビア語文献に基づいて、以下のようなマリ王のリストを作成した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証によると、このリストは捏造や恣意的な解釈を含む[5]。例えば、1310年から1312年までマリ王であったとドゥラフォスが主張する「アブバカリ2世」は、イブン・ハルドゥーンが記載しておらず口承伝統にも現れない捏造である[5]:345 ff.。イブン・ハルドゥーンが示したスンジャタ以後13, 14世紀の王統図(Levtzion (1963) の検証による)[5]

Sundiata Keita(スンジャタ・ケイタ) (1240-1255)

Wali Keita (1255-1270)(マンサ・ウリ・ケイタ)

Ouati Keita (1270-1274)(マンサ・ワティ・ケイタ)

Khalifa Keita (1274-1275)(マンサ・ハリファ・ケイタ)

Abu Bakr (1275-1285)

Sakura (1285-1300)

Gao (1300-1305)

Mohammed ibn Gao (1305-1310)

Abubakari II (1310-1312)

Kankan Musa I (マンサ・ムーサ)(1312-1337)

Maghan (1337-1341)

Suleyman (1341-1360)(マンサ・スレイマン)

Kassa (1360)

Mari Diata II (1360-1374)

Musa II (1374-1387)(マンサ・ムーサ2世)

Maghan II (1387-1389)

Sandaki (1389-1390)

Madhan III (Mahmud I) (1390-1400)

Unknown Mansas (1400-1441)

Musa III (1440年代)

Ouali II (1460年代)

Mahmud II (1481-1496)

Mahmud III (1496-1559)

Mahmud IV (1590年代-1600年代)(マフムード4世)

例えばバジル・デヴィッドソン(英語版)やレモン・モニ(フランス語版)といった、専門の歴史学者による研究が始まるのは、植民地主義に立脚した帝国主義国家に崩壊をもたらした第二次世界大戦の後からである。「アフリカの年」1960年に始まったユネスコの記念事業、『ユネスコ・アフリカの歴史(フランス語版)』(l’Histoire generale de l'Afrique)の発刊(1964-1999年)は、中世マリ史研究を含むアフリカ史研究の画期になった。同書には、前世紀にヘーゲルが示したアフリカの歴史に対する認識を覆すような学術的成果が示され、中世マリ史を含めたアフリカの歴史の実相が明らかになった。その中には、特にドゥラフォスにより明らかになったように見えた、マリの君主の系譜や王国社会の構造が、根拠薄弱な推論であって実際のところは史料の不足によって文献学的に明らかにできないという結論も含まれる。
史資料論14世紀に建てられたジンガレイベル・モスク(フランス語版)(トンブクトゥ)のミナレット。マリ帝国においては同モスクのようなスーダーン様式(フランス語版)と呼ばれる建築様式が発展した[6]

サハラ以南のアフリカの諸地域について一般的に言えることではあるが、中世マリに関する歴史叙述を裏付ける資料となる史料は、北アフリカやヨーロッパに比べると、少ない[7]

最重要の史資料が、モロッコやエジプトなどの北アフリカのアラブ人やベルベル人が書き残したアラビア語文献である[7]。まず、アブー・ウバイド・バクリー(1014年頃生 - 1094年)は11世紀のサハラ以南の西アフリカについて、そこを訪れた商人からの伝聞という間接的な手段によってではあるが、いくつかの情報を書き残している[8]:82-83[9]イドリースィーは12世紀のサハラ以南の西アフリカについて、断片的な情報を残している[8]:103。

最盛期のマリには多数のアラブ人やベルベル人が旅行者として訪れ、マリに関する記録をアラビア語で書き残した[7]。また、マリ人も巡礼等の目的で北アフリカやヒジャーズ地方を訪れたため、エジプトなどに彼らが語ったことの記録が残っている[7]。このようなアラビア語文献としては、イブン・ファドルッラー・ウマリー(英語版)、イブン・バットゥータイブン・ハルドゥーンマクリーズィーらが書いた歴史書があり、これらに依拠すると13?15世紀のマリの大まかな歴史の流れがわかる[7][5][10]イブン・バットゥータ(1304年-1368年)は、1352年2月から1353年12月までサーヘル地帯を周遊した。彼の旅行記『リフラ』は唯一無二であり、マリ王国の歴史全体に関して最も重要である。イブン・バットゥータはマリの首都に8ヶ月間にわたり滞在し、町の構造に関する貴重な情報を残している。しかし彼の旅行記からは判然としない部分も数多くあることも同時に、旅行記を読むとわかり、歴史叙述の上で興味深い点がある[11]イブン・ハルドゥーン(1332年-1406年)は『イバルの書』にマリのことを記載するために、カイロまで行ってさまざまな情報を収集した。

マリ人やその子孫が書き残した文字資料も皆無というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世西アフリカ社会内部から見たマリの歴史を書いた年代記(ターリーフ)が残されている[7]。アブドゥッラフマーン・サアーディー(フランス語版)が書いた16世紀の『ターリーフ・スーダーン(フランス語版)』とマフムード・カアティ(フランス語版)が書いた17世紀の『ターリーフ・ファッターシュ(フランス語版)』が利用できる。ただし、どちらもソンガイ帝国の歴史を遡って叙述することに主眼があるので、マリ王国の歴史にはあまり多くの叙述量を割いていない。

さらに中世マリ史の場合は、上記文献資料のほかに利用できる史料として、「グリオ」と呼ばれる吟遊詩人による口承伝統(oral tradition)が存在する点が特徴である[7]。グリオは民族の歴史や過去の王族の事跡を語り伝える職能カーストであり、その記憶内容は特定の家系で相伝される。口承伝統を利用することで、マリの歴史を外部からではなく内部から知ることができる[7]


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