マリー・ピエルス
Mary Pierce
マリー・ピエルス
基本情報
フルネームMary Caroline Pierce
国籍 フランス
出身地カナダ・モントリオール
居住地アメリカ・フロリダ州サラソータ
生年月日 (1975-01-15) 1975年1月15日(49歳)
身長178cm
体重68kg
利き手右
バックハンド両手打ち
殿堂入り2019年
ツアー経歴
デビュー年1989年
引退年2006年
ツアー通算28勝
シングルス18勝
ダブルス10勝
生涯通算成績708勝353敗
シングルス511勝237敗
ダブルス197勝116敗
生涯獲得賞金$9,793,119
4大大会最高成績・シングルス
全豪優勝(1995)
全仏優勝(2000)
ウィンブルドン(英)ベスト8(1996・2005)
全米準優勝(2005)
優勝回数2(豪1・仏1)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪準優勝(2000)
全仏優勝(2000)
ウィンブルドン(英)3回戦(2002・04)
全米ベスト4(1999)
優勝回数1(仏1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪1回戦(1993)
全仏ベスト8(1990・92)
ウィンブルドン(英)優勝(2005)
全米ベスト4(1995)
優勝回数1(英1)
国別対抗戦最高成績
BJK杯優勝(1997・2003)
ホップマン杯準優勝(1998)
キャリア自己最高ランキング
シングルス3位(1995年1月30日)
ダブルス3位(2000年7月10日)
■テンプレート ■プロジェクト テニス
マリー・ピエルス(Mary Pierce, 1975年1月15日 - )は、フランスの女子プロテニス選手。1995年の全豪オープンと2000年の全仏オープン女子シングルスで優勝し、4大大会2勝を挙げた実力者である。自己最高ランキングはシングルス3位、ダブルス3位。WTAツアーでシングルス18勝、ダブルス10勝を挙げた。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。単純な英語読みによる「メアリー・ピアース」などの表記揺れも多いが、本記事では(彼女が国籍を持つ)フランス語読みに近い「マリー・ピエルス」の名前で記述する。 出身地はカナダのモントリオールだが、13歳の時にフランス国籍を取得した。テニスを始めたのは10歳の時で、他の選手に比べるとかなり遅かったが、父親のジムが娘に厳格なスパルタ教育を施した。1989年に14歳でプロ転向。1994年の全仏オープン準決勝にてシュテフィ・グラフをストレートで圧倒したが、決勝戦ではアランチャ・サンチェス・ビカリオに敗れて準優勝になる。翌年の1995年に、全豪オープン決勝でそのサンチェスに雪辱を果たし、20歳で4大大会初優勝を達成する。モデルの仕事をこなすほどの美貌や豊満な肢体もあり、才色兼備の女子選手として期待を集めたが、その後は故障による長期間のスランプに悩んだ。 1997年に全豪オープンで2年ぶり2度目の決勝進出を果たしたが、当時16歳3ヶ月のマルチナ・ヒンギスに 2-6, 2-6 で完敗し、女子テニス4大大会における史上最年少優勝記録を目撃する。この年は女子国別対抗戦・フェドカップでフランス・チームを初優勝に導いた。女子ツアー年間最終戦のWTAツアー選手権でも、ヤナ・ノボトナとの決勝まで進んでいる。 2000年の全仏オープンでは準決勝では当時世界ランク1位のヒンギスとの接戦を勝ち抜き6年ぶりの決勝進出を果たし、今度はコンチタ・マルティネスを 6-2, 7-5 で破って初優勝を決めた。フランス人の女子選手が地元の全仏オープンを制覇したのは、1967年のフランソワーズ・デュール以来33年ぶりの快挙であった。この大会ではマルチナ・ヒンギスとペアを組んだダブルスでも優勝し、単複2冠を獲得している。 この全仏優勝の後、ピエルスは再び大きな故障に悩み、1年近く戦線離脱を強いられた。それを乗り越え、2005年の全仏オープンで5年ぶり3度目の決勝進出を果たしたが、ジュスティーヌ・エナン=アーデンに 1-6, 1-6 で完敗、同大会では2度目の準優勝となる。この年は全米オープンでも、30歳にして初の決勝進出を果たすが、キム・クライシュテルスに 3-6, 1-6 で敗れて準優勝に終わった。年末のWTAツアー選手権でも8年ぶり2度目の決勝進出で、同じフランスのアメリ・モレスモに 7-5, 6-7, 4-6 で敗れた。 ウィンブルドンでの自己最高成績は、1996年と2005年のベスト8である。1996年のウィンブルドン準々決勝では、センター・コートで日本の伊達公子に 6-3, 3-6, 1-6 の逆転で敗れている。2005年は9年ぶり2度目の準々決勝でビーナス・ウィリアムズに敗れた。2度目のベスト8に入った時は、混合ダブルスでインドのマヘシュ・ブパシと組んだ優勝がある。 ピエルスは2006年10月、オーストリア・リンツ大会の2回戦ベラ・ズボナレワとの試合を途中棄権したのが最後の公式戦出場になった。2007年全仏オープンで、ピエルスは女子シングルス決勝終了後の表彰式に登場し、大会3連覇を達成したジュスティーヌ・エナンに優勝カップを授与した。ピエルスは2008年北京オリンピックのフランス代表選手に選ばれたが怪我のため欠場した。 ピエルスは2019年に国際テニス殿堂入りを果たした。 大会グレード 結果No.決勝日大会サーフェス対戦相手スコア
来歴
WTAツアー決勝進出結果
シングルス: 41回 (18勝23敗)
グランドスラム (2?4)
ツアー選手権 (0?2)
ティア I (5?4)
ティア II (5?11)
ティア III (2?1)
ティア IV & V (4?1)
優勝1.1991年7月14日 パレルモクレー サンドラ・チェッキーニ
優勝2.1992年2月23日 チェゼーナ
優勝3.1992年7月12日 パレルモクレー ブレンダ・シュルツ6?1, 6?7(3?7), 6?1
優勝4.1992年11月1日 プエルトリコ