マリー・ド・フランス
Marie de France
マリーのシール
称号シャンパーニュ伯妃
出生1145年
フランス王国
死去1198年3月11日
フランス王国、シャンパーニュ伯領
埋葬 フランス王国、モー、サン=エティエンヌ大聖堂
配偶者シャンパーニュ伯アンリ1世
子女一覧参照
家名カペー家
父親フランス王ルイ7世
母親アリエノール・ダキテーヌ
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マリー・ド・フランス(Marie de France, 1145年 - 1198年3月11日)は、フランス王女。シャンパーニュ伯アンリ1世妃。フランス王ルイ7世と最初の王妃アリエノール・ダキテーヌの長女で同母妹にアリックス、異母妹にマルグリット、アデル、アニェス、異母弟にフィリップ2世がいる。
また母は父と離婚した後にアンジュー伯アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)と再婚したため、再婚後の母が生んだウィリアム、若ヘンリー王、マティルダ、リチャード1世、ジェフリー、エレノア、ジョーン、ジョンたちはマリーの異父弟妹にあたる。 1144年、出産を願った母がクレルヴォーのベルナルドゥスに祈願して妊娠、翌1145年に生まれたのがマリーだった。しかし7年後の1152年に両親の婚姻無効が成立すると、マリーと妹アリックスの親権は父の物となった[1]。 1160年、父はアデル・ド・シャンパーニュと3度目の結婚を執り行い、マリーとアリックスをアデルの兄たち(シャンパーニュ伯アンリ1世、ブロワ伯ティボー5世)とそれぞれ婚約させた[2]。婚約後、アデルはシャンパーニュにあるアヴネの修道院で教育を受けるため送られた。 婚約から4年後の1164年、マリー・アリックスとアンリ1世・ティボー5世の二重結婚が行われた[3]。 1179年から1181年までアンリ1世が聖地巡礼に出ると、マリーは伯領の摂政としてとどまった。夫が不在の間に父が亡くなり、異母弟フィリップ2世が即位した。彼は実母アデルの寡婦領地を没収し、かつてマリーの長男と婚約していたことのあるイザベル・ド・エノーと結婚した。この行いが、フィリップ2世に対し陰謀をめぐらし、不満を持つ貴族の集まり(前王妃アデルやランス大司教も加わっていた)にマリーが加わるよう促されることとなった。 最終的にはマリーと弟との関係は改善されたが、夫は聖地から帰国してまもなく死去した。4人の幼い子供をもつ寡婦として、マリーはフランドル伯フィリップ1世との結婚を考えるが、婚約は原因不明のまま破棄されている[4]。 1181年にアンリ1世が亡くなってから、長男アンリ2世が成人に達した1187年まで、マリーはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンを側近に取り立て摂政を務めた[5]。
生涯