マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア
[Wikipedia|▼Menu]

マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア
Maria Clotilde di Savoia
サヴォイア家
1859年
在位1859年1月30日 - 1891年3月17日

全名Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia
称号サヴォイア公妃マリー・クロティルデ王女殿下 (1843-1859)
マリー・クロティルデ・ボナパルト皇太子妃殿下 (1859-1911)
敬称ケキーナ
サヴォイア公妃
シスター・マリー・カテリーネ
出生 (1843-03-02) 1843年3月2日
サルデーニャ王国トリノ
死去 (1911-06-25) 1911年6月25日(68歳没)
イタリア王国モンカリエーリ
埋葬 イタリア王国トリノ、スペルガ聖堂
配偶者ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト
子女ヴィクトル
ルイ
マリー・レティシア
家名サヴォイア家
父親イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
母親マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ
宗教カトリック
テンプレートを表示

ルドヴィカ・テレーザ・マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア(イタリア語: Ludovica Teresa Maria Clotilde di Savoia, 1843年3月2日 - 1911年6月25日)は、サヴォイア家の王女。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世ハプスブルク家の大公女マリーア・アデライデの娘である。フランス語名はルイーズ・テレーズ・マリー・クロティルド・ド・サヴォワ(Louise Therese Marie Clotilde de Savoie)。

マリーア・クロティルデは敬虔なカトリック教徒として知られ、ローマ教皇ピウス12世は1942年7月10日にクロティルデを神のしもべとすることを宣言した[1]
生涯
幼少期と青年期幼少期のクロティルデ(右端)と弟妹のウンベルトアマデオ、オッドーネ、マリア・ピア(1848年)[注 1]1852年当時のトリノ王宮(1852年の版画)この頃フランスでは第二帝政が始まった。モンカリエーリ城の航空写真(2005年撮影)クロティルデは幼少期からここで長い時間を過ごし、のちに終の棲家とした。

マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイアは1843年3月2日にトリノ王宮でヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(当時は皇太子)とマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナの長女として生まれた。その後、夫婦には他に七人の子供が生まれた。それはウンベルト(1844年 - 1900年)、アマデオ(1845年 - 1890年)、オッドーネ・マリア・デ・サヴォイア(1846年 - 1866年) マリア・ピア・デ・サボイア(1847年 - 1911年)、カルロ・アルベルト(1851年生まれ)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ(1852年に生後間もなく死去)と彼と同名のもう一人(1855年に生まれ、数年後に死去。)である。アデライデは育児を乳母や看護師に任せず、カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイアの妻で義母のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナとともに娘とモンカリエーリ城で長い時間を過ごした。クロティルデは幼い頃から穏やかで決断力のある性格を示し、祈ることを学び、カトリックの教えに基づいた生活スタイルを築いた[3]

クロティルデは周囲からChechina(ケキーナ)という愛称で呼ばれ、貴族としての道を歩み始めた。彼女の日課は厳格に定められ、高名な教授が選んだ家庭教師による授業が行なわれ、精神修養に加えて、余暇には彼女が特に好んだ乗馬などを行なった[4]。これらの日課を送るにあたっては、家政婦のパオリーナ・ディ・プリオラの支えもあった。後年、クロティルデはプリオラの曾孫娘の一人に会ったときのことを懐かしく思い出している[5]。その一方で、クロティルデは最初の秘蹟を受ける準備を注意深く進めていた。これについては聖体拝領式の前月に書かれた三冊のノートが残っている。それらを読むと、すでに彼女の人格はしっかりと形成されており、人生のあらゆる局面において神を優先しようと決意していたことが分かる。一冊目のノートには、以下に抜粋するように10歳の少女にしては珍しく王女としての敬虔な態度があらわれている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}(私は)小さな試練に身を投じます:自分が不快に思うことを愛想よくやり遂げています - 毎日決まった時刻に神の存在を思い出すこと、小さな試練を受け入れること、そして常に貧しい人々のために私の楽しみの一部を放棄することです[6]

1853年6月11日、ストゥピニジ教区教会にて聖体拝領堅信の合同式典がジェノヴァ大司教のアンドレア・シャルバスによって執り行われ、同時に彼女の弟のウンベルトにも秘蹟が授けられた[7]

間もなく、クロティルデ自身にもいつか来るであろうとひそかに予期していた試練が訪れる。1855年には日々の喜捨行為に加えて四つの別れがあった。1月12日には祖母のマリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナが死去し、その葬儀が行なわれた16日の夜に母のアデライデが虫垂炎を発症して床に伏し、クロティルデが最期の別れを告げた二日後に世を去った[注 2]。さらに、2月11日には叔父のジェノヴァ公フェルディナンド・アルベルト・アメデーオ・ディ・サヴォイアが死に、5月には弟のヴィットーリオ・エマヌエーレが夭折した[9]

クロティルデは、日記や当時の書簡、のちに書かれた回想録などからわかるように、信仰という武器で苦しみに立ち向かい、より一層信仰心を深めた。その後もドミニコ会修道士のジョヴァンニ・トンマーゾ・ギラルディ、モンドヴィ司教のチェーザレ・ロッリ、修道院長のスタニスラオ・ガゼッリらの協力を得て精神修養を続けた[10]。同時に、クロティルデはそのマナーの良さでも賞賛された。1856年5月には、クリミア戦争の渦中にあったサヴォイア家とロシアとの関係改善のためにトリノを訪れたアレクサンドラ・フョードロヴナレセプションで、クロティルデはサヴォイア家のファーストレディとしての責務を負った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef