マリク・シャー
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、セルジューク朝の第3代スルタンについて説明しています。第6代スルタンについては「マリク・シャー2世」をご覧ください。
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "マリク・シャー" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年2月)

マリク・シャー
???????
セルジューク朝スルタン

在位1072年 - 1092年

出生1055年8月8日

死去1092年11月19日

配偶者ズバイダ
 テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)
子女バルキヤールク
ムハンマド・タパル
アフマド・サンジャル
マフムード1世
娘(マスウード3世の妃)
家名セルジューク家
王朝セルジューク朝
父親アルプ・アルスラーン
宗教イスラム教スンナ派
テンプレートを表示

マリク・シャー(ペルシア語: ???????, ラテン文字転写: Malik Sh?h; アラビア語: ???? ?????? ???? ????? ??? ????? ?????? ?? ??? ??????, ラテン文字転写: Jal?l al-Dawla Mu'izz al-D?n Ab? al-Fat? Malik Sh?h b. Alp Arsl?n、1055年8月8日 - 1092年11月19日)あるいはマリク・シャー1世(-いっせい)は、セルジューク朝の第3代スルタン(在位:1072年 - 1092年)。第2代スルタンのアルプ・アルスラーンの子。マリクアラビア語で、シャーペルシア語で、それぞれ「」を意味する。アッバース朝カリフから授けられた尊号は ????? ???? ?????? ???? ????? ??? ????? ?????? ???? ???? ???????? Sul??n Jal?l al-Dawla Mu'izz al-D?n Ab? al-Fat? Malik Sh?h Yam?n Am?r al-Mu'min?n。
経歴
即位とイスファハーン遷都

1072年に父アルプ・アルスラーンがマー・ワラー・アンナフル遠征中に急死したことにより、長男のマリク・シャーは17歳という若年で大セルジューク朝のスルタンに即位した。しかしこれは彼のアタベクで名宰相(ワズィール)と称されたニザームルムルクの画策するところが大きく、伯父で父アルプ・アルスラーンの長兄であった ケルマーン・セルジューク朝の始祖カーヴルト・ベグがスルターン位を求めて反乱を起こした。翌1073年にカーヴルドは捕縛され処刑されたが、カーヴルドの息子たちは已然としてケルマーンで強勢を保っていたため討伐は実現し難く、マリク号を剥奪するかわりにアミール位を与えてカーヴルド家によるケルマーンの支配を事実上黙認した。また、さらに1074年にはイラン東部ホラーサーン地方の主都ニーシャープールを領有していた弟のテキシュが反乱を起こすなど、治世の初頭は親族間との紛争に悩まされた。

これにともなって王都(ダール・アル=ムルク)をエスファハーンに定めた。この位置は東南部の強力なカーヴルド王家と西南部のアッバース朝に対しにらみを利かせることが狙いであるが、北方のレイマーザンダラーンなどカスピ海南岸地域、東方のホラーサーン、マー・ワラー・アンナフル、西方のルーム、シリア方面への接続にも利便性が高かったため、治世中に展開した領土拡張にも大いに地の利を得る形となった。
セルジューク朝の勢力拡大

1070年代半ばに父アルプ・アルスラーンによるマラズギルトの戦い以降、アナトリアに入植したダーニシュマンドらをはじめとするセルジューク朝系アミールたちが領土紛争を始めていたことに憂慮し、トゥグリル・ベクらの伯父アルスラーン・イスラーイールの家系に属すクタルムシュの長男スライマーンをアナトリアに派遣し、これの調停にあたらせた。これが後のルーム・セルジューク朝の基礎となった。

また、シリア方面にはシリア・セルジューク朝の始祖で弟のトゥトゥシュを、ホラーサーン方面には息子のひとりアフマド・サンジャルをそれぞれに領有させている。
統治と宗教政策マリク・シャー没年(1092年)ころのセルジューク朝支配地域

マリク・シャーはニザームルムルクの補佐もあって、無難に統治を行なった。ニザームの補佐のもと、中央集権化による官僚制を確立し、対外的には勢力拡大に奔走し、東はアフガニスタンから西は東ローマ帝国に及ぶ一大支配圏を築き上げた。また、1074年バグダードに天文台を建設し、さらにウマル・ハイヤームに新暦を編纂させるなど、文化的にも大いに優れていた。宗教政策ではスンナ派を重用してイスマーイール派を弾圧したが失敗。彼の時代に王朝は全盛期を迎えたが、この宗教政策の失敗が王朝衰退の一因ともなった。

ヒジュラ暦485年ラマダーン月10日土曜日(1092年10月20日)、名宰相であったニザームルムルクがマリクの妃テルケン・ハトゥン(ペルシア語版)に暗殺された。マリク・シャーはその死を知って悲しんだが、同年に無理を押して出陣を強行し、バグダードに滞在中の翌シャウワール月(10月21日 - 11月9日)に、陣中で病に倒れてニザームの後を追うように37歳で急死した。ニザームルムルク殺害から一ヶ月も経たぬうちにマリク・シャーも病没したと伝えられている。治世は20年であった。

マリク・シャーは、ニザームを重用し、セルジューク朝の全盛期を築き上げた名君として高く評価されている。
関連項目

エスファハーンの金曜モスク

先代
アルプ・アルスラーン大セルジューク朝君主
1072年 - 1092年次代
マフムード1世

典拠管理データベース


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef