イタリアの政治家マリオ・モンティMario Monti
マリオ・モンティ(2013年2月)
生年月日 (1943-03-19) 1943年3月19日(81歳)
出生地 イタリア王国、ロンバルディア州ヴァレーゼ
出身校ボッコーニ大学
マリオ・モンティ(イタリア語: Mario Monti、1943年3月19日 - )は、イタリアの経済学者、政治家。終身上院議員(英語版)。同国閣僚評議会議長(首相に相当)を務めた。このほか首相就任以来2012年7月まで経済財務大臣を兼任したほか、2期連続で欧州委員会委員を、またミラノにあるボッコーニ大学の学長及び総長を務めた。 1943年、イタリア王国ロンバルディア州ヴァレーゼに生まれた。 ボッコーニ大学より経済と経営の学位を得た。イェール大学ではジェームズ・トービンの元で大学院研究を終えた[1]。 1970年から1985年までトリノ大学で経済を教え、ボッコーニ大学に移った。そこでは1989年から1994年まで学長を、1994年からは総長を務めている。彼の研究は、独占的な状況下における銀行の振る舞いの詳細な記述を目的とした、いわゆる「クライン・モンティ・モデル」を作り出すことに貢献した。 モンティは2005年に設立されたヨーロッパのシンクタンク、ブリューゲルの初代議長である。また1973年にデイヴィッド・ロックフェラーによって設立されたシンクタンク日米欧三極委員会のヨーロッパ委員長を務め[2]、ビルダーバーグ会議の主導的メンバーでもある[3]。またゴールドマン・サックスとザ コカ・コーラ カンパニーの国際的顧問である[4]。 1994年に第1次シルヴィオ・ベルルスコーニ政権においてエンマ・ボニーノと共同で欧州委員会のイタリア委員に任命される。1995年からの欧州委員会委員として、域内市場・サービス担当、関税・課税担当を務めた。 4年後の1999年、欧州委員会の委員長にロマーノ・プローディが就任し、マッシモ・ダレマ政権はモンティを再び委員に任命した。2期目は競争政策担当となり、マイクロソフトに対する独占禁止の手続きを開始。また2001年には、ゼネラル・エレクトリックとハネウェルの間で持ち上がった合併計画の調査を主導し、欧州委員会は最終的に合併を阻止している。このような働きぶりから、一貫して切れ者という評価で通っており、「スーパーマリオ」と渾名された[5][6]。2004年に第2次ベルルスコーニ政権は欧州委員をモンティからロッコ・ブッティリオーネ
経歴
欧州連合欧州委員時代のモンティ(2008年)
2010年にはジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ委員長より“共同市場の将来についての報告”をまとめるよう委任される。これは欧州連合の共同市場を完成させるためにさらなる方策を提案するものである[8]。また同年9月15日に立ち上げられた新構想スピネリ・グループ(英語版)(欧州連邦主義者)に協力。これは欧州連合の連邦化に向けての努力を再活性化させようとする目的で作られ、他の著名な協力者としてはジャック・ドロール、ダニエル・コーン=ベンディット、ヒー・フェルホフスタット、アンドリュー・ダフ(英語版)、エルマー・ブローク(英語版)などがいる。
イタリア首相宣誓式に臨むモンティ内閣(2012年11月16日)
欧州経済危機の中イタリアは国際通貨基金(IMF)の監視下に入ることとなり[9]、ベルルスコーニ首相は求心力を失っていった[10]。11月8日に下院議会で採決された決算関連法案は可決されたものの与党議員の造反を招き[11]、ベルルスコーニ首相は窮地に追いこまれた。こうした中、11月9日にイタリア共和国大統領ジョルジョ・ナポリターノはモンティを名誉職の終身上院議員に指名した[12]。これはベルルスコーニの後継として擁立するという意図もあったとされ[13]、この時点でモンティの次期首相就任が有力となっていた[14]。
そして11月13日、モンティはナポリターノ大統領から第82代閣僚評議会議長(首相)に指名されると共に、組閣の要請を受けた[15]。すぐに閣僚の人選を進めたが、実務型内閣を志向するモンティに対し各党からの反応は鈍く、組閣の作業は難航[16][17]。