マリオ・メンドーサ
Mario Mendozaピッツバーグ・パイレーツ時代
(1974年)
基本情報
国籍 メキシコ
出身地チワワ州チワワ
生年月日 (1950-12-26) 1950年12月26日(73歳)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手
プロ入り1970年
初出場1974年4月26日
最終出場1982年5月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
ピッツバーグ・パイレーツ (1974 - 1978)
シアトル・マリナーズ (1979 - 1980)
テキサス・レンジャーズ (1981 - 1982)
メキシコシティ・レッドデビルズ (1982)
モンクローバ・スティーラーズ (1984)
アグアスカリエンテス・レイルロードメン (1984 - 1985, 1987)
チャロス・デ・ハリスコ (1988)
モンテレイ・サルタンズ (1989 - 1990)
メキシコ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2000年
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マリオ・メンドーサ・アイスプル(Mario Mendoza Aizpuru , 1950年12月26日 - )は、 メキシコ・チワワ州チワワ出身の元プロ野球選手(遊撃手)。右投右打。MLBとメキシカンリーグでプレーした。
MLBでは典型的な守備型の遊撃手で、打率は2割に満たないことも多かった。これに因んで、打率2割のラインが「メンドーサ・ライン(Mendoza Line)」と呼ばれるようになった[1]。 渡米前はメキシカンリーグのディアブロス・ロホス・デル・メヒコ(Diablos Rojos del Mexico
経歴
1970年にピッツバーグ・パイレーツと契約。
1974年4月26日のアストロズ戦で代走として出場し、メジャーデビューを果たした。パイレーツには5シーズン在籍したが、守備固めとしての出場が大半だった。
1978年の12月に自らトレードを志願し、シアトル・マリナーズへ移籍した[2]。
1979年には自己最多の148試合に出場したが、401打席で打率は.198だった。「メンドーサ・ライン」という言葉が生まれたのはこの年のことであった。
1980年には自己最高の打率.245を記録した。この年の12月12日にウィリー・ホートンら合計11選手が動く大型トレードでテキサス・レンジャーズに移籍した。
1982年のシーズン途中にレンジャーズを解雇される。
1983年は3Aのハワイ・アイランダーズ(Hawaii Islanders)でコーチ兼任選手としてプレー。
1990年に現役を引退した。この7年間の通算打率は.291だった[2]。
引退後は1994年にビル・バベシの招きでアナハイム・エンゼルスの1A監督に就任し、2000年まで務めた。