マリウスの軍制改革
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ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロウェルケラエの戦い』(1727年頃)メトロポリタン美術館所蔵

マリウスの軍制改革(マリウスのぐんせいかいかく、Marian Military Reform)とは、紀元前2世紀末にガイウス・マリウスによって施行されたとされるローマ軍の改革。この改革によって、将来の帝政ローマへの道筋がついたとされ[1]、市民兵から構成されていたローマ軍団は、志願者によるプロの集団に切り替わったと言われてきたが、学者の間ではこれ以前から軍の改革は徐々に進められていたと考えられている[2][注釈 1]。また、軍団兵の私兵化、職業軍人化という見方についても、兵士の市民としての側面が見直されている。
軍制の変遷紀元前5世紀ギリシア重装歩兵の再現

元々のローマの軍団兵はローマ市民によって構成された。彼らはケンソル(監察官)の行なうケンスス(国勢調査)によって、資産ごとにケントゥリア民会の単位でもあるケントゥリア(百人隊)に振り分けられ、エクィテス(騎兵)か5つのクラッシス(階級)に登録されていた[3]

ケントゥリア(百人隊)のクラッシス(階級)[4]

エクィテス(騎兵)

第1クラッシス

第2クラッシス

第3クラッシス

第4クラッシス

第5クラッシス:ここまでが資産階級(アッシドゥイー)

無産階級(プロレタリイ、もしくはカピテ・ケンシ)- 兵役免除[5]

市民はローマ市内で武器を携帯することが禁じられており、その原則のためにケントゥリア民会は郊外のカンプス・マルティウスで行われた。彼らはケントゥリア単位で戦い、同じ単位でケントゥリア民会では上級政務官を選出し、宣戦布告を票決していた[6]。この頃の戦術は重装歩兵ファランクス(密集方陣)であった。彼らは自分の資産を守るためにも国のために戦い、その義務を果たすことによって自身の権利を拡大していった[7]。当初はフル装備で戦えるのは第1クラッシスの40ケントゥリア(つまり4000人)だけで、徐々に第2、第3クラッシスも装備を整えられるようになったと考えられている[8]改革前のマニプルス(中隊単位)時代のローマ軍団の編成。下からウェリテス(軽装兵)、ハスタティ(第一列)、プリンキペス(第二列)、トリアリイ(第三列)。両脇はエクィテス(騎兵)

共和政初期には近隣との小競り合いが多かったものの、紀元前4世紀ウェイイ攻略(ウェイイ包囲戦 (紀元前396年))やラティウム戦争を経て拡大したローマは、紀元前311年頃を境に軍団数も4に増やし、サムニウム戦争の教訓から、マニプルス(中隊)単位で動く三列からなる三重戦列(トリプレクス・アキエス)を取り入れたと考えられている[9]。クラッシスの制度が始まった王政ローマ6代目セルウィウス・トゥッリウス王の時代には、第5クラッシスの最低資産額は11000アス (青銅貨)だったが、後に4000アスにまで引き下げられ[3][注釈 2]、この三列への振り分けは、資産ではなく主に年齢によって行われ、第一列(ハスタティ)が最も若く、第三列(トリアリイ)はベテランで構成された[11]

マニプルス時代の軍団(レギオ)[12]

騎兵(エクィテス):騎兵部隊(トゥルマエ)x30。デクリオ(十人隊長)3人が指揮

騎兵部隊(トゥルマエ):10騎


軽装兵(ウェリテス):1200名

第一列(ハスタティ):マニプルス(中隊)x10(1200名)

第二列(プリンキペス):マニプルス(中隊)x10(1200名)

第三列(トリアリイ):マニプルス(中隊)x10(600名)

マニプルス(中隊):ケントゥリア(百人隊)x2

ケントゥリア(百人隊):ケントゥリオ(百人隊長)が指揮




制度上の問題紀元前218年地中海世界。水色がローマ、赤色がカルタゴ

資産階級の17才から46才の男性市民は兵役義務を負い、ユニオレス(iuniores、青年隊)と呼ばれ、47才から60才までのセニオレス(seniores、老年隊)も場合によっては召集されたが、彼らは普段は市民で、それは将校も同様であり、常備軍を持たなかった共和政ローマに職業軍人は存在しなかったとも言える。装備は自弁であり、そのために資産があることが前提で、彼らはコンスル(執政官)やプラエトル(法務官)によって発せられる告知を見て出頭し、各軍団に配置され、誓約(サクラメントゥム)を行うことでインペリウム(指揮権)への服従義務と、武器の使用権を与えられた。無産階級も軽装兵として召集されてはいたが、当初は補充扱いで、共和政後期になって重装歩兵部隊に加えられるようになると、装備の一部は国から支給されるようになっていった[13]

共和政初期には、資産家である少数のエクィテスや第1クラッシスの重装歩兵の働きが大きかったとが推測されるが、第二次ポエニ戦争の頃には徴兵単位がケントゥリアからトリブス(選挙区)に移っており、資産よりも市民の年齢が重視されるようになっていたことが覗える。クラッシスに登録される市民の資産が大土地所有(ラティフンディウム)などによって低下し、第5クラッシスの資産基準も、4000アスから更に1500まで切り下げられ[注釈 3]、軍団兵の主力が、資産の少ない多数の市民に移っていった(ローマ軍の無産市民化)。軍団内での装備などの階級の差も徐々になくなっていったと考えられる[15]キンブリ族、テウトネス族の侵攻ルート

給料は紀元前5世紀末から払われていたと考えらていれるが、せいぜい生活費の足しにしかならず[16]ポリュビオスが第二次ポエニ戦争期に支払われたとしている一日あたり2オボルスという額も、おそらく生活費に消えたと考えられ、毎回報奨金が貰える訳でも、戦利品が確実に得られる訳でも無く、スキピオ・アフリカヌスの退役兵に土地が分配された例があるものの、その後行われていたかは不明で、この時点で職業軍人化は進んでいないと考えられる[17]。共和政初期には主に防衛のための動員で、春から始まり秋の収穫までには終わっていたが、ローマの拡大に従って、海外で戦う場合には数年は家を空けることになり、自分の農地が守れないため兵役忌避するものも現れていた。紀元前2世紀末のキンブリ族テウトネス族の侵入を受け、イタリア外での長期にわたる戦争が予想されることとなり、徴兵のあり方にも改革が迫られた[18]


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