マリア・ブエノ
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はアンディオン、第二姓(父方の姓)はブエノです。

マリア・ブエノ
Maria Bueno


マリア・ブエノ
基本情報
フルネームMaria Esther Andion Bueno
国籍 ブラジル
出身地 ブラジル サンパウロ
生年月日 (1939-10-11) 1939年10月11日
没年月日 (2018-06-08) 2018年6月8日(78歳没)
死没地 ブラジル サンパウロ
利き手右
バックハンド片手打ち
殿堂入り1979年
4大大会最高成績・シングルス
全豪準優勝(1965)
全仏準優勝(1964)
ウィンブルドン(英)優勝(1959・60・64)
全米優勝(1959・63・64・66)
優勝回数7(英3・米4)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪優勝(1960)
全仏優勝(1960)
ウィンブルドン(英)優勝(1958・60・63・65・66)
全米優勝(1960・62・66・68)
優勝回数11(豪1・仏1・英5・米4)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪ベスト4(1960)
全仏優勝(1960)
ウィンブルドン(英)準優勝(1959・60・67)
全米準優勝(1958・60)
優勝回数1(仏1)
■テンプレート  ■プロジェクト テニス

マリア・ブエノ(Maria Bueno, 1939年10月11日 - 2018年6月8日)は、ブラジルサンパウロ出身の元女子テニス選手。フルネームは Maria Esther Andion Bueno (マリア・エステル・アンディオン・ブエノ)という。主に1960年代に活躍し、ブラジル人のテニス選手として世界の頂点に立った最初の選手となった。彼女はウィンブルドンで3勝、全米選手権(現在の全米オープンテニス)で4勝し、4大大会女子シングルスで通算7勝を挙げた伝説的名選手である。ダブルスでの業績も多く、4大大会で女子ダブルス11勝・混合ダブルス1勝を記録した。

ブエノはコート上での優雅で素速い動きから、「サンパウロのつばめ」(Sao Paulo Swallow)という愛称で呼ばれた。アマチュアテニス選手として62大会で優勝し、プロ選手になってからは1974年の「ジャパン・オープン」で優勝がある。
来歴

1958年アメリカアリシア・ギブソンとペアを組み、ウィンブルドン選手権の女子ダブルスで初優勝。1959年ウィンブルドン全米選手権4大大会年間2冠を獲得。1960年、ブエノはウィンブルドン選手権で大会2連覇を達成し、女子ダブルスで「年間グランドスラム」を達成した。全豪選手権だけは、パートナーはクリスティン・トルーマンイギリス)であったが、全仏選手権から全米選手権までダーリーン・ハードアメリカ)と組んで女子ダブルス3連勝を成し遂げた。したがって、1960年度の4大大会女子ダブルスはブエノ1人について「年間グランドスラム」が成立する。

1963年、ブエノは全米選手権マーガレット・スミスを破り、4年ぶり2度目の優勝を飾った。1964年に再び、ウィンブルドン全米選手権の年間2冠を獲得する。最後の4大大会シングルス優勝は、1966年全米選手権であった。この頃、ブエノはアマチュアのテニス選手であった。4大大会にプロ選手の出場が解禁される「オープン化」措置は、1968年に実施された。ブエノもこの措置が実施された後、プロテニス選手になる。

マリア・ブエノのテニス経歴には、数々の苦難もあった。オープン化措置が実施された1968年、ブエノは自動車事故に遭い、生死の境をさまよう大怪我を負う。回復までに5度の大手術を克服し、長いブランクを乗り越えて1974年に現役復帰を果たした時、その強靭な精神力は同僚の選手たちやテニスの観客にも大きな感銘を与えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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