マリア・デ・モンペリエ
Maria de Montpellier
アラゴン王妃
マリアとペドロ2世の結婚
在位1204年 - 1213年
出生1182年
南フランス・モンペリエ
死去1213年4月21日
教皇領、ローマ
埋葬 教皇領、ローマ
結婚1194年
1197年
1204年6月15日
配偶者マルセイユ副伯バラル・デ・ボー
コマンジュ伯ベルナール4世
アラゴン王ペドロ2世
子女アラゴン王ハイメ1世
父親モンペリエ領主ギレム8世
母親エウドキア・コムネナ
宗教ローマ・カトリック
テンプレートを表示
マリア・デ・モンペリエ(Maria de Montpellier, 1182年 - 1213年4月21日)は、アラゴン王ペドロ2世の王妃。ハイメ1世の母。 マリアはモンペリエ領主ギレム8世とその妻エウドキア・コムネナとの間の唯一の子として生まれた。母エウドキアは東ローマ帝国の皇族イサキオス・コムネノス
生涯
1187年、両親が離婚、父ギレム8世は男子をもうけるためイネス・デ・カスティーリャと再婚した。当初教会はエウドキアとの離婚を無効としたが、1202年に再婚が認知された[2]。1181年の取り決めにもかかわらず、モンペリエはマリアにではなく、イネスとの間にできた息子に継承されたが、のちにマリアにモンペリエの相続権が認められた[3]。
1194年、12歳でマルセイユ副伯バラル・デ・ボーと結婚する。バラルは間もなく死去し、マリアはコマンジュ伯ベルナール4世と再婚したものの、のちにベルナール4世はマリアと離婚した。1204年6月15日、マリアはモンペリエの領地獲得をもくろんだアラゴン王ペドロ2世と結婚した[4]。結婚後、モンペリエを獲得したペドロ2世はマリアを遠ざけるようになったが、マリアは一計を案じ、一子ハイメ(後のアラゴン王ハイメ1世)をもうけることができた[5]。ある筋の情報によるとマリアは真夜中にペドロの現在の愛人の振りをして彼を閨に誘い込み、しばらくして意気揚々と妊娠していることを明かしたという。
1213年、マリアはローマで死去した。
脚注^ リッシェール、p. 451
^ リッシェール、p. 452
^ 尾崎 他、p. 8
^ リッシェール、p. 453
^ 田澤、p. 56
参考文献
アシル・リッシェール 『フランス中世の社会 フィリップ=オーギュストの時代』 東京書籍、1990年
尾崎明夫、ビセント・バイダル 訳・解説 『征服王ジャウメ1世勲功録 レコンキスタ軍記を読む』 京都大学学術出版会、2010年
田澤耕 『物語 カタルーニャの歴史』 中央公論新社、2000年