マリア・アンナ・フォン・プファルツ=ノイブルク
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マリアナ・デ・ネオブルゴ
Mariana de Neoburgo
スペイン王妃
R・G・ジャンス(フランス語版)画、1715年
在位1690年5月14日 - 1700年11月1日

出生1667年10月28日
神聖ローマ帝国
プファルツ=ノイブルク公領デュッセルドルフ、ベンラート城
死去 (1740-07-16) 1740年7月16日(72歳没)
スペイン帝国グアダラハラ、インファンタード宮殿
埋葬 スペイン帝国エル・エスコリアル修道院
結婚1690年5月14日 バリャドリッド
配偶者スペインカルロス2世
家名プファルツ=ノイブルク家
父親プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルム
母親エリーザベト・アマーリア・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
宗教ローマ・カトリック
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マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ(Maria Anna von der Pfalz, 1667年10月28日 - 1740年7月16日)は、ドイツの プファルツ=ノイブルク家の公女で、スペインカルロス2世の2人目の王妃。スペイン語ではマリア・アナ・デル・パラティナード=ネオブルゴ(Maria Ana del Palatinado-Neoburgo)、あるいはその短縮形のマリアナ・デ・ネオブルゴ(Mariana de Neoburgo)で呼ばれた。
生涯
出自と婚前期

プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムと、その2番目の妻でヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の娘であるエリザベート・アマーリアの間の第12子・五女。知識面のみならず、基礎的な音楽教育を含めた幅広い教育を授けられた[1]。宗教教育はイエズス会に委ねられた。四兄カール・フィリップは1683年のブダの戦いに際し、エステルゴムの長官ハサン・パシャの6歳の娘を捕虜としたが、この少女をハイデルベルクに連れていき、妹マリア・アンナに預けて養育を頼んだ。マリア・アンナは少女を大切に育て、結婚に際してもスペインに伴った。この少女は成人後、最終的にノイブルク・アン・デア・ドナウカルメル会女子修道会会長として死んだ[2]
スペイン王妃

スペイン王カルロス2世の最初の王妃マリー・ルイーズ・ドルレアンが1689年2月12日に子を産まないまま死ぬと、在スペイン皇帝大使ハインリヒ・フランツ・フォン・マンスフェルトの策動により、次の王妃としてマリア・アンナが選ばれた。これはフランス王家に対するハプスブルク家の婚姻政策の勝利と受け止められた。マリア・アンナの長姉エレオノーレ・マグダレーネは神聖ローマ皇帝レオポルト1世の皇后であり、マリア・アンナは皇帝の義妹だったからである。早速、ノイブルクでの代理結婚式(英語版)が皇帝臨席のもと1689年8月19日に挙行された。ちょうど前年の初夏にプファルツ継承戦争が始まったばかりであり、この嫁入りはルイ14世王の政府に対する挑発とフランスからは受け取られたため、マリア・アンナは陸路でスペインに行けず、イギリス政府が貸与した船舶に乗って海路でスペインへ渡った。1690年5月4日、バリャドリッド郊外サン・ディエゴ修道院(スペイン語版)でカルロス2世との正式な婚礼が行われ、5月20日にマリア・アンナのマドリードへの入市式が行われた[3][4]

マリア・アンナは好んで自身を王の「第一の大臣」と称し、精神と肉体の双方に深刻な問題を抱えていた夫カルロス2世に絶大な政治的影響力を及ぼした。1691年、新王妃はオロペーサ伯爵(英語版)を王の主席大臣の座から引きずり下ろした。しかし1692年、長兄ヨハン・ヴィルヘルムをガスタニャガ侯爵(英語版)の後任としてスペイン領ネーデルラント総督に任命する人事については、うまくいかなかった。姑の王太后マリアナ・デ・アウストリアが自分の孫婿にあたるバイエルン選帝侯マックス・エマヌエルを次の総督に推し、主張を押し通したからである。この時期までマリア・アンナは姑の王太后との良好な関係を維持していたが、この件以降、嫁姑の仲は険悪なものとなった[3][4]

マリア・アンナの尊大な態度は彼女に不利に働いたが、それ以上に彼女の致命的な欠陥といえるのは、スペイン人から実家プファルツ=ノイブルク家の家門拡大政策をスペインの利害と同一視していると思われたことである。こうした批判的な見方を助長するかのように、王妃は相談役をすべて自分と同じドイツ出身者で揃えてしまう。聴罪司祭の「デ・キウーサ神父」ことガブリエル・ポンティフェーザー(スペイン語版)は南ティロル地方キウーザ/クラウゼンのドイツ系住民の生まれで、1699年キウーザにカプチン会修道院(ドイツ語版)を建設して故郷に錦を飾った。秘書官のハインリヒ・フォン・ヴィーザー(スペイン語版)や女官長のマリー・ゲルトルーデ・フォン・ベルレプシュ伯爵夫人も実家の兄たちが送り込んだドイツ人だった。こうした取り巻きの存在はスペイン人から強く嫌悪され、同時に王妃の立場をも苦しくした。ヴィーザーは1695年スペインから追放された。王妃はこの事件で気落ちしたように見えたが、憂鬱の本当の原因は、この結婚の本来の目的であったカルロス2世の子を授かり出産するという使命を果たせる可能性が消えたためであった。ベルレプシュ伯爵夫人は王妃懐妊の噂を何度も流したが、それはそのたびに王妃の宮廷内の立場が一時的に強まるからだった。1696年5月に対立していた姑のマリアナ王太后が死んだ後は、トレド大司教ルイス・フェルナンデス・ポルトカレッロ(英語版)枢機卿が王妃の新しい敵対者となった。枢機卿はフランス王が推す次期国王候補への支持を明らかにしていた。

1699年2月、カルロス2世の後継者に決まっていたヨーゼフ・フェルディナント・フォン・バイエルンが急死すると、マリア・アンナは次の後継者として甥のオーストリア大公カール(後の皇帝カール6世)を推したが、ポルトカレッロ枢機卿はフランス王ルイ14世の孫息子アンジュー公爵(後のフェリペ5世王)を推した。死を目前にしたカルロス2世は、自らの来世のことも考慮して、妻ではなく国内最高聖職者の意見を支持した。ポルトカレッロが作成を懇願していたカルロス2世の最後の遺言状には、王位継承者をフランスのアンジュー公爵と治定する旨が書かれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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