公用語マラーティー語
首都サーターラー
後にプネー
ペーシュワー
1713年 - 1720年バーラージー・ヴィシュヴァナート
1796年 - 1818年バージー・ラーオ2世
面積
2,800,000km²
人口
1700年ごろ1億5千万人
変遷
不明1708年
解体1818年9月21日
通貨ルピー、パイサ
現在 バングラデシュ
インド
パキスタン
マラーター同盟(マラーターどうめい、英語:Maratha Confederacy、1708年 - 1818年)は、中部インドのデカン高原を中心とした地域に、マラーター王国及びマラーター諸侯(サルダール)によって結成された連合体。マラーター連合(マラーターれんごう)とも呼ばれる。
18世紀にムガル帝国の衰退に乗じて独立し、一時はインドの覇権を握った。だが、同紀末から19世紀初頭にかけて、インド全域に勢力を伸ばすイギリス東インド会社との3度のマラーター戦争で敗れ、解体した。その領土はイギリス東インド会社の直接支配下に入り[1]、王国や諸侯の領土は藩王国に編成された。
歴史
前史、マラーター王国の建国シヴァージー
1660年前後よりデカン高原西部にて、シヴァージーの率いるヒンドゥー教徒のマラーターがムガル帝国に反乱を起こす。シヴァージーはマラーター王国を建国、長期間のゲリラ戦にてムガル帝国の皇帝アウラングゼーブを苦しめた。
1680年シヴァージーが死んで、息子のサンバージーが後を継いだが、アウラングゼーブのムガル帝国軍がムスリム五王国のビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼしデカンでの戦いを有利に進めていく中で、彼は1689年にムガル帝国との戦いでとらえられて、処刑されてしまった。
サンバージーが殺されてしまい、その弟のラージャーラームは南インドに逃げて王国を復興しようとしたが、ムガル帝国が一時的に南端部を除く全インドを支配した。結果的に王国が復興したのは彼の死後、妻ターラー・バーイーの時代だった。
マラーター同盟の形成と領土拡大バージー・ラーオ
26年間続いたデカン戦争で、マラーター王国は一時衰退したものの、アウラングゼーブが死ぬと、1708年にシャーフーが即位した。そして、マラーター王国が中心なり、王国の諸侯(サルダール)とともに連合してマラーター同盟を結成した。ただし、同盟が形成されるのはもう少し後の話である。
1713年、バラモンのバーラージー・ヴィシュヴァナートが宰相となって同盟を率いた。彼はマラーター同盟の基礎を作り、1719年にはマラーター諸侯を連れてサイイド兄弟がファッルフシヤルを打倒するのに協力した[2]。
1720年、バーラージー・ヴィシュヴァナートが死亡すると、その息子であるバージー・ラーオ1世が宰相となった[2]。彼はシヴァージーの再来といわれ、ムガル帝国の分裂と衰退に乗じてデカンからインド中部、北インド全体に勢力を伸ばし、1737年には弱体化したムガル帝国の首都のデリーを攻撃した。
バージー・ラーオの宰相在任期間、マラーター王国はデカンを越えて、帝国とも言えるほど広大な版図を領するようになった。その一方で随行した武将であるマラーター諸侯に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった[3]。
これにより、北インドにはシンディア家、マールワーにはホールカル家、グジャラートにはガーイクワード家がそれぞれ統治を許された。