マラティヤ
Malatya
位置
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}マラティヤマラティヤ (トルコ)トルコの地図を表示マラティヤマラティヤ (中東)中東の地図を表示マラティヤマラティヤ (ヨーロッパ)ヨーロッパの地図を表示
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度20分55秒 東経38度19分10秒 / 北緯38.34861度 東経38.31944度 / 38.34861; 38.31944
座標: 北緯38度20分55秒 東経38度19分10秒 / 北緯38.34861度 東経38.31944度 / 38.34861; 38.31944マラティヤ(マラトヤ、トルコ語: Malatya; ヒッタイト語:Melid; ギリシア語: Μαλ?τεια, Malateia; クルド語: Meleti; アルメニア語: ???????)はトルコ中部東アナトリア地方の都市で、マラティヤ県の県都。ユーフラテス川上流部の西岸に広がる標高950mの平原上に位置するアナトリア高原の古都で、ヒッタイト帝国以来の歴史を持つ。人口は2009年国勢調査で411,181人[1]。
2012年の行政区画改編により、マラティヤ県とマラティヤ大都市自治体は同一の範囲となっており、元のマラティヤ市は隣接する自治体に分割され消滅した[2]。 ヒッタイト時代の記録にはメリド
名称と概要
ローマ帝国から東ローマ帝国を経てオスマン帝国までの時期にかけてのメリテネ/マラティヤの市街地は、マラティヤの20km離れた隣町バッタルガーズィーにあった。しかし19世紀以降、現在のマラティヤ市街地の場所へと人口や都市機能が移転し、古くからのマラティヤの町は「エスキマラティヤ」(Eskimalatya、旧マラティヤ)と呼ばれるようになった。現在、旧マラティヤの町は8世紀のムスリム戦士シディ・バッタル・ガーズィーにちなんでバッタルガーズィーと改名されている。 マラティヤ郊外の農村地帯にある集落アルスラーンテペ(Arslantepe)には、肥沃な三日月地帯に農業が起こった時期から人が暮らしてきた遺跡が残っている。古代、この遺跡はメリド(Melid)、メリッドゥ(Meliddu)、マラディヤ(Maladiya)などと呼ばれる都市であった。青銅器時代には、メリドはイスワ
歴史
古代のマラティヤ
ヒッタイトは紀元前14世紀にメリドを征服するが、ヒッタイトの滅亡後は、メリドは新ヒッタイト(シリア・ヒッタイト)に属する小国家のひとつカマンヌ(Kammanu)の中心となった。新ヒッタイトの時代、メリドは古くからのヒッタイトの伝統を継承する都市であった。1930年代にフランスの考古学者ルイ・デラポルテ(Louis Delaporte)が発掘に着手したアルスラーンテペ遺跡では、城壁内から宮殿が見つかっており、ライオンや支配者らの姿を刻んだ新ヒッタイト時代の彫像や浮彫が見つかっている。
アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世(紀元前1115年 - 1077年)によりメリドは征服され、以後アッシリアへの貢納を払い続けることになった。しかしメリドは、アッシリア王サルゴン2世の軍によって紀元前712年に制圧され略奪されるまで都市としての繁栄を続けた。サルゴン2世による略奪と相前後して、アナトリアにはキンメリア人とスキタイ人が侵入し、以後メリドは衰退していった。
アケメネス朝とセレウコス朝の支配下で新たな場所に街が建てなおされた。アナトリアを征服したローマ帝国はこの新たな街であるメリテネ(Melitene)に第12軍団フルミナタを置いた。メリテネはアナトリア東部のアルメニア人居住地域のうち、アルメニア王国の西に広がる小アルメニア(P'ok'r Hayk'、ローマ帝国支配下の地域)全体の中心となった。4世紀に東ローマ帝国皇帝テオドシウス1世がローマ領アルメニアを第一アルメニア属州(セバステイア、現在のスィヴァスを中心とする)と第二アルメニア属州に分割し、メリテネは第二アルメニアの中心地となっている[3]。 ユスティニアヌス1世(527年 - 565年)の治世には地方行政改革が行われ、メリテネは第三アルメニア属州の中心となった[4]。575年(または576年)にはサーサーン朝のホスロー1世の進撃を東ローマの将軍ユスティニアヌスが食い止めた戦いがメリテネで起きた。東ローマ軍によるメリテネ占領(934年) しかし638年には正統カリフ時代のイスラム帝国がメリテネを征服し、以後アッバース朝時代まで、メリテネはアラブによるアナトリア征服の拠点都市になり、東ローマに対する脅威となった。9世紀には、アッバース朝のもとで半ば独立状態にあったアミール(総督)のウマル・アル=アクタ
中世
10世紀にはニケフォロス2世フォカスがシリア正教会のアンティオキア総主教を説得し、信徒ともどもメリテネ一帯へ移動させた。この時に移住したシリア人たちがメリテネやその周辺の都市に主教区を創設している[6]。ハジ・ユースフ・モスクマラティヤの時計塔
1071年にマンジケルトの戦いで東ローマが敗北したことによりアナトリアにテュルク人が多数侵入し、以後メリテネもテュルク系勢力に影響されるようになった。11世紀末にはアルメニア人の正教徒であるガブリエル(メリテネのガブリエル)がメリテネを支配した。彼はエデッサのトロス(第1回十字軍の際にブーローニュのボードゥアンに殺された)と同様、アルメニア系の東ローマの軍人フィラレトス・ブラカミオス(Philaretos Brachamios)の部下のアルメニア人武将であった。