マライ軍政監部
[Wikipedia|▼Menu]

マライ軍政監部(マライぐんせいかんぶ、馬来軍政監部)は、1943年4月に創設され、日本軍占領下のマラヤで軍政を所管した日本軍の組織。この記事では、同組織の前身となった第25軍軍政部および第25軍(富集団)軍政監部についても述べる。[1]
沿革
第25軍軍政部

日本軍(第25軍)は、1941年11月の編成当初から軍政部を組織しており、同軍の馬奈木敬信参謀副長が軍政部長を兼任していた[2]。1941年12月の太平洋戦争開戦後、第25軍軍政部は、マレー作戦により占領したマラヤ各州に暫定的に軍政支部を設置し、支部長に大佐・中佐級の現役・予備役の軍人を任命した[3]

1942年2月16日にシンガポールを占領してマレー作戦が終了すると、第25軍軍政部はシンガポール(「昭南」と改称)に置かれ[4]、昭南軍政部とも呼ばれた[5]。第25軍軍政部は、総務・財務・産業・交通の4部で編成された[6]

英領マラヤ時代の連邦州・非連邦州・海峡植民地の区別は廃止され、昭南特別市政庁が設置されたほか、マラヤは10州に区分され(ケダ州プルリス州はあわせて1州とされた)、各州に政庁が設置された[7][8]。1942年3月には、昭南特別市長とマラヤ10州の州長官が任命され[6]、支部長に代わって予備役の少将・中将や、内務・拓務官僚、外交官が州長官となった[9][8]

スマトラ島の占領後、第25軍軍政部はスマトラの軍政も所管した[10]

1942年4月に馬奈木軍政部長はボルネオ守備軍参謀長兼北ボルネオ軍政部長に転出し、同月、軍政部次長だった渡邊渡が軍政部長に昇格した(総務部長と兼任)[11]。同年5月から7月にかけて、鉄道・郵政・通信の各総局が設置された[6]
第25軍軍政監部

1942年7月に南方軍総司令部(威集団)がサイゴンからシンガポールに移駐すると、軍政組織は改組され、南方軍占領地の軍政を統轄する南方軍軍政総監部が新設され、マライ・スマトラ両地区の軍政は第25軍(富集団)軍政監部が所管することになった[12][13]。第25軍の鈴木宗作参謀長が軍政監を兼任した[11]。本部には、総務・管理・警務・司法・産業・財務`交通・会計監査の各部、外局として、衛生局、敵産管理局、鉄道総局、通信総局、郵政総局、気象局、公共施設局、測量局の各局が置かれ、別に法院、検察局、刑務所も設置された[6]
マライ軍政監部

1943年4月、第25軍のスマトラ島移駐に伴いスマトラ軍政監部が新設され、マラヤ地区の軍政のみを担当する馬来(マライ)軍政監部が新設された[14][6]。軍政監は第25軍参謀長の西大条胖から磯矢伍郎に交代した[15]。本部には総務、警務 (のち治安部) ・産業・財務・会計監督・宣伝の各部、外局として鉄道・海事・通信 (のち電政局) ・郵政の各局が置かれ[6]、部局数が削減された[16]

1943年9月に日タイ条約に基づいて、マラヤ10州のうち、クランタントレンガヌ、ケダ・プルリスの3州(4州)はタイに移譲された[6]

1944年1月に第29軍が編成され、タイピンに配置されると、マライ軍政監部の本部はシンガポールから同年2月にペラ州クアラカンサー(マレー語版)へ、同年10月にタイピンヘ移転した[17]。ただし、鉄道総局、電政・通信局、高等法院はクアラルンプールに、放送管理局および海事局はシンガポールに残された[18]

1945年2月に、昭南特別市とジョホール州の軍政は、第7方面軍軍政総監部(昭南軍政監部)の直轄となった[6]。マライ軍政監部の軍政監は川原直一少将、総務部長は梅津広吉少将に交代した[11]
特徴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。
出典検索?: "マライ軍政監部" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年9月)

軍政官僚と文民官僚の対立・摩擦

軍政監部に配された軍人出身の軍政官僚と、昭南特別市政庁や州政庁に配属された文民官僚の間ではしばしば対立・摩擦が生じ、マラヤの文民官僚の中には大達茂雄昭南特別市長のように、軍政監部の渡辺渡・軍政部長と対立し、後者が更迭された例もあったが、一般的には戦争遂行のため軍政官僚の意見が優先されており、文民官僚が職権に基づき主張を通すことは困難だった[19]
現地人官僚の登用

戦前、英国人が占めていた行政機構の上層部のポストは、日本軍政下では日本人の官僚に交代したが、人数の不足から、日本人不在の場合には現地人の担当経験のある上級官僚が就任する場合も多かった[20]。特に戦前は英国人が担っていた郡長(土地局の管理、財務処理等の業務を所管し、軍政令に基づく権限を行使した)のポストにはマレー人が多く任用された[21]。軍政末期には軍政監部は郡長を指導する役職である「郡指導官」と「郡指導官補」を新設し、郡長への監督・指導を強化したが、文書による指示と郡指導官の指示が食い違う問題が生じた[22]
組織・人事

この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef