マライア・キャリー
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マライア・キャリー
アメリカ議会図書館での授賞式にて(2023年)
基本情報
出生名Mariah Carey
生誕 (1969-03-27) 1969年3月27日(55歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ハンティントン
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コンテンポラリー・R&B[1][2]

ヒップホップ[1]

ダンス・ポップ[1]

職業

シンガーソングライター

音楽プロデューサー

女優

作家

起業家

慈善活動家

担当楽器

ボーカル

ピアノ

ギター

活動期間1988年 -
レーベル

コロムビア

クレイヴ

ヴァージン

モナーク

アイランド

Def Jam

エピック

レガシー

Butterfly MC

公式サイトマライア・キャリー 公式サイト

マライア・キャリー(: Mariah Carey [m??ra?? ?k??ri]1969年3月27日ー)は、アメリカ合衆国シンガーソングライター音楽プロデューサー女優慈善活動家である。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では『Songbird Supreme(究極の歌姫)』と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している[3]
概略

音楽はコンテンポラリー・R&Bヒップホップゴスペルなどのブラックミュージックを基盤としている。Billboard Hot 100における首位獲得週最多記録保持者であると同時に、現存するアーティストの中で最も全米1位を獲得した人物(1位獲得数は19曲で20曲獲得しているビートルズに次いで歴代2位、1位獲得週は93週間で60週獲得している2位のリアーナ、59週獲得している3位のビートルズに大差をつけている。)として2023年現在も記録を塗り替えている。

Songwriters Hall of Fame(ソングライターの殿堂)に殿堂入りを果たしており、これまでにリリースした数々のヒット曲を含む延193曲の作詞作曲を自身が手掛けてきた功績が認められている[4]

マライアが作詞作曲をした代表曲の1つである「All I Want For Christmas Is You 邦題:恋人たちのクリスマス」は2020年12月15日に全米1位を獲得し、その後も毎年1位を獲得し続けており、2023年12月の時点で自身の首位獲得週を92週に更新している。また、2020年に1位を獲得したことで、4つの年代(1990年代、2000年代、2010年代、2020年代)にわたり1位を獲得した史上初のアーティストとなった[5]。同曲の音源は、米国議会図書館が管理する全米録音資料登録簿に永久保存されている。

歌唱力においては、5オクターヴ半(F2?Bb7を観測[6])という声域を余すことなく表現に活かしたライヴパフォーマンスと楽曲で知られており、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な200人のシンガー」においては第5位にランクインしている[7]。超高音域のホイッスルボイス[8]、メリスマ唱法(1音節の発声を複数の音符で彩る歌唱テクニック)の女王と呼ばれている。[9]

2023年8月時点で、グラミー賞(5冠)、World Music Awards(史上最多の19冠)American Music Awards(10冠)、Billboard Music Awards(15冠)、などの世界主要音楽賞を含めた計166賞の受賞歴を誇る。

全世界でシングルセールス6600万枚以上[要出典]、アルバムセールス2億2000万枚以上[要出典]、トータルセールス2億8000万枚以上のセールスを記録している。(2023年8月)

1995年にキャンプ・マライアというチャリティー基金団体を設立し、25年以上もの間子供達への職業体験イベントやサマーキャンプ、クリスマスイベントを提供している。[10]
略歴
幼少期?デビューまで

ベネズエラ系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人の血を引く)とアイルランド系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれた。両親は、アメリカで白人と黒人が結婚することが合法的に許されるようになってまだ2年という時代に結婚し、マライアと彼女の兄弟はミックス人種として人種差別を受けていた。中学生の時に実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした[11]。マライアが3歳の時に両親は離婚している[12]。後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が音楽であったと度々語っている。この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。

ハイスクール卒業後、マンハッタンへ移り、ウェイトレスやアーティストのバックコーラスなどをしてスタジオ代を賄いながら作曲やレコーディングに明け暮れた。バックボーカルの仕事でブレンダ・K・スターと出会い、ブレンダに連れられて訪れたパーティー会場でCBSレコードコロンビアレーベル、現:ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国))のトミー・モトーラ社長へ渡したデモテープがきっかけとなり契約を交わした[13][14]。当時の初期の契約から、マライアの音楽制作物に関する芸術活動の全ての選択において、マライア自身が関わることを保証すると書かれていたという。

1990年に「Vision of Love」でデビュー。デビュー直前にNBAファイナルで「America the Beautiful」を熱唱し、トレードマークのホイッスルボイスを披露すると、会場司会から「この場に女神が誕生した。」と喝采を受け、後日出演したGood Morning Americaでのライブパフォーマンスで披露した歌唱力が話題になったことから、デビュー曲の「Vision of Love」とアルバム『Mariah Carey』は共に1位を獲得した。
1990年?2000年:第1次黄金期

1990年から2000年にかけてデビューから11年間、毎年全米1位を獲得した史上最長記録(2位はビートルズとエルビス・プレスリーの7年連続)を打ち立て、鮮烈なキャリアスタートを切った。[要出典]

1991年には女性アーティストとして3人目となる『ビルボード』誌のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。

アルバム『Music Box』(1993年)、『Daydream』 (1995年)はソロアーティスト自身が作詞、作曲を行った作品としては珍しく、全世界で各2500万枚を超える大ヒットとなった。Boyz II Menとのデュエット曲「One Sweet Day」は1995年から1996年にかけてBillboard Hot 100で16週連続No.1を獲得。この最長記録は2019年リル・ナズ・Xオールド・タウン・ロード」が19週連続No.1を達成するまで23年間破られることはなかった[15][16]

1995年、キャンプ・マライアを設立して、低所得者層の恵まれない子ども向けに芸術や就業機会を学ぶ場を提供している。同時にFresh Air Fundの設立もしていて、1700万人以上のNYの治安が悪い地域の子どもたちに無料の夏休みを提供している。

1996年にはPeace Officer's Memorial Serviceに参加し、ビル・クリントン(第42代大統領)の前で「Hero」を披露した。1998年12月、エドワーズ空軍基地にて

1997年、アルバム『Butterfly』からの1stシングル「Honey」を発表。この曲は当時の音楽界に衝撃を走らせ、マライアによるこの曲の発表によってロックやポップスなどから、R&BやHip-Hopなどがアメリカでは全盛期を迎えることになった[注 1]。ヒップホップビートのサンプリングや、ラップとヴォーカルの融合によるクロスオーバーは今でこそ多くのアーティストが行なっているが、マライアが試みていた当時は同スタイルでのヒット曲が皆無であった。95年にラッパーのODBを起用してマライア自身がプロデュースした「ファンタジー」が8週間全米1位を獲得し、さらにこの「Honey」が初登場1位となったことで、アメリカの音楽トレンドが変わっていったとされている。この現象は日本の音楽にも波及し、直後にデビューした宇多田ヒカルや後のR&B系歌姫達の基盤を作った。後のインタビューで、地元ニューヨークがルーツとされるヒップホップは10代の頃から慣れ親しんでおり、このジャンルで認められることが黒人の父を持つ自身のアイデンティティーにはとても大切なものであったと語っている。

音楽的にはそれまでのポップ、アダルト・コンテンポラリーから、R&Bヒップホップ系にシフトし、90年後半以降の音楽トレンドの先駆者となった。後に彼女がこのアルバムのコンセプトであるバタフライトレードマークとしているように、デビュー当時の商業的ポップ志向から離れ、よりプロデューサとしてマライア独自の芸術性・音楽性を開放していくきっかけとなった。

1998年にはホイットニー・ヒューストンとのデュエット曲「When You Believe」(映画『プリンス・オブ・エジプト』主題歌)を発表。同年発売された初のベスト・アルバム#1's』に収録された。

この時点で、彼女が会社(ソニー・ミュージック)に生み出した利益は1000億円を超えたと言われている。
2001年?2004年:低迷期

1999年のアルバム『Rainbow』を最後にソニー・ミュージックを離れEMI傘下のヴァージン・レコードに移籍。


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