マヤ文明
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「マヤ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「マヤ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ティカル2号神殿    ウシュマル遺跡の「尼僧院」チチェン・イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック・キャザウッドの石版画

マヤ文明(マヤぶんめい)は、メキシコの南東部、グアテマラベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。セノーテという淡水の泉に育まれたため、他の古代文明とは違い、大河の流域でない地域に発達したという特徴がある。
地理マヤ文明の領域
三つの地域

マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルチチェン・イッツァマヤパンなどの都市が繁栄した。なかでももっとも乾燥している北西部においては塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。

現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。

現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い[1]
歴史

マヤ文明の時代区分[2]時代下位区分年
太古期8000?2000 BC[3]
先古典期先古典期前期2000?1000 BC
先古典期中期前期1000?600 BC
後期600?350 BC
先古典期後期前期350?1 BC
後期1 BC ? AD 159
終末期AD 159?250
古典期古典期前期AD 250?550
古典期後期AD 550?830
古典期終末期AD 830?950
後古典期後古典期前期AD 950?1200
後古典期後期AD 1200?1539
植民地期AD 1511?1697[4]

先古典期前期(紀元前2000年 - 紀元前1000年)詳細は「en:Early human migrations」、「オルメカ」、および「形成期」を参照「クエリョ(Cuello)(スペイン語版、英語版)」、「ラマナイ」、「コパン」、および「カル・ペチ」も参照

この時期、マヤ高地においては土器が使用されていたものの、マヤ低地においてはいまだ土器が使用されない程度の文化水準となっていた。
先古典期中期(紀元前1000年 - 紀元前350年)詳細は「先古典期マヤ文明(英語版)」を参照

紀元前1000年以降になると、いわゆる「中部地域」で土器が使用されるようになり、間もなく文明が急速に成長し始めた。ナクベやティカルなどの都市に居住が始まったのもこのころである。
先古典期後期(紀元前350年 - A.D.250年)

紀元前400年以降、先古典期後期に入ると都市の大規模化が起こり、現ベリーズラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル(Tikal)、ワシャクトゥン(Uaxactun)、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)、カラクムル(Calakmul)などの都市が大きく成長した。
先古典期マヤ文明の衰退詳細は「先古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照

100年から250年ごろにかけては大変動期に当たり、エル・ミラドールやナクベといった大都市が放棄され、ほかにも多くの都市が衰退していった。こうした変動の中でティカルとカラクムルは大都市として生き残り、次の古典期における大国として勢力を拡大していった。
古典期前期(A.D.250年 - 550年)

開花期の古典期(A.D.250年 - 550年)にはティカルカラクムルなどの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。378年ごろにはメキシコ中央高原のテオティワカンの影響がティカルやコパンなどマヤ低地南部のいくつかの都市に見られ、この時期にテオティワカンから一部勢力がマヤに影響力を行使したことがうかがえる。ただしこうした影響は短期間にとどまり、やがて地元の文化と融合していった。
古典期後期(A.D.550年 - 830年)

古典期後期(A.D.550年-830年)には大都市のカラクムルやティカルのほかにも多くの小都市国家が発展した。このころの大勢力としては、マヤ低地北西部のウシュマル、北東部のコバー、マヤ低地南部では西からパレンケヤシュチラン、カラクムル、ティカル、ペカン、そして南東部に離れたところにあるコパンなどが挙げられる。また、マヤ低地にはエズナカラコルアグアテカといった中小都市も多く存在し、興亡を繰り返していた。8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。マヤ文明の人口は最大1,000万人の住民と推定されている[5]。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、いくつかの商業都市も生まれた。
古典期マヤ文明の衰退詳細は「古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照

9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、
遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)

北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)

農民反乱説

内紛説

疫病説

気候変動説

農業生産性低下説

など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている[6]。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と、少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。

一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン・イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた遺跡があったことから、文明の重心がマヤ低地南部から北部へと移ったと推測されている。
後古典期(A.D.950年 - 1524年)「プトゥン人」も参照

後古典期(A.D.950-1524)には、北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。チチェン・イッツァの衰退後、12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。またこの時期は交易が盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市や交易都市が、カカオ豆やユカタン半島のなどの交易で繁栄した。


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