マムルーク
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オスマン帝国のマムルーク重騎兵(1550年頃)

マムルーク(単数形 : ????? maml?k, 複数形 : ?????? mam?l?k)は、10世紀から19世紀初頭にかけてトルコアラビア半島を中心とするイスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人を指す。トルコ奴隷とも邦訳される。

言葉通りの奴隷ではなく、その社会的位置付けは時代と共に大きく変遷しており、総括的に言えば軍人徒弟に近い存在である。幼少期から戦闘訓練を積んだ彼らはエリート軍人と見なされて高い地位に就く事もあり、栄達した者はマムルークの親方となって新たな少年奴隷ないし徒弟を召し抱えた。
概要

原義は「所有(m-l-k)された者」を意味し、本来はアブド、ジャーリヤなどのアラビア語で奴隷を指す様々な語のうちの男性奴隷を指す語のひとつであるが、特にマムルークの語は9世紀頃から19世紀初頭頃までイスラム世界の各地で広く活躍した白人の奴隷身分出身の軍人たちを指すのが普通である。

イスラム世界において「白人」とは「黒人」の純粋な対義語であり、サハラ以南のアフリカネグロイドを除くユーラシア・アフリカ大陸に住んでいた人種がおおむね白人と考えられていた。軍人として活躍したマムルークの出自はおおよそがキプチャクなどのテュルク系民族あるいはチェルケス人などのカフカス系民族であったが、モンゴル人クルド人アルメニア人ギリシャ人スラヴ人等の民族も含まれた。

マムルークは、多くが幼少の頃から乗馬に親しんでいる騎馬民族の出身で、また幼少のうちに購入されて乗馬、弓射、槍術などの徹底した訓練を受けて弓射を得意とする騎兵のエリート軍人として育成された。彼らはその優れた軍事力で13世紀から16世紀初頭までエジプトシリアを支配したマムルーク朝では事実上の支配階層であった。
マムルーク制度の前提マムルークマムルークの肖像(1779年)高位のマムルーク(19世紀)

イスラム世界においては、シャリーアによって奴隷の法的身分に関する規定が明確化されており、彼らは所有者によって自由に売買、贈与されることができ、結婚の自由、財産を蓄える権利、公職につく資格などを法的に制限されていたが、債務不履行や親による売却によってイスラム社会の自由人をむやみに奴隷とすることは禁じられ、信仰の自由を与えられるなど、人間としての一定の権利を認められる存在であった。特に最後の規定により、生まれながらの奴隷を除いては、奴隷の獲得は異教徒に対する戦争において捕虜としたものを奴隷とすることしか認められなくなった。

また、奴隷を解放することは最後の審判のあと天国に迎えられるために望ましい善行とみなされていたので非常に積極的に行われ、奴隷は解放によって社会身分上は自由人にまったく劣らない資格を獲得することができた。しかし、解放されても奴隷は生まれながらのイスラム社会の成員ではなかったので社会的に力のある者に保護されることが必要であり、必然的に元所有者との間に保護・被保護の関係が結ばれ、一種の主従として関係が存続する社会的な制度が存在した。このような元奴隷の被保護者のことをマワーリーという。

イスラム以前のアラブ社会では、奴隷はもっぱら家内奴隷であったが、マワーリーの制度によって富裕な有力者は盛んに奴隷を購入し、平時には子飼いの商人、戦時には兵士として動員することができる被保護者を増やして力を蓄えた。イスラム化以降も同様であり、奴隷や捕虜が有力者の私的な軍事力に利用される慣行は維持された。
マムルークの登場

上で触れたように、イスラムの規定は新たな奴隷の獲得を事実上戦争捕虜に限定していたが、このため預言者ムハンマド死後のアラブの大征服の時代を経てイスラム共同体ウンマ)の拡大が止まったとき、わずかな戦争捕虜の解放に対して奴隷の供給が不足することは明らかである。こうして、イスラム社会はイスラム帝国外部からの奴隷の獲得に依存するようになる。もともとイスラム以前からアビシニア出身の黒人が奴隷としてアラブ社会には多く流入していたが、アッバース朝の頃になると、ザンジュと呼ばれた東アフリカ出身者、サカーリバと呼ばれた東ヨーロッパスラヴ人などが購入された。

さらに、ムスリム(イスラム教徒)勢力が中央アジアに安定支配を築いたアッバース朝の時代になると、アトラークと呼ばれるテュルク系の遊牧民たちが奴隷としてイスラム世界にもたらせるようになる。アッバース朝は彼らテュルク系の奴隷を数多く購入して、それまでの主力であったアラブ人やペルシア人マワーリーの軍事力を代替するようになり始めた。通説によれば、このようなテュルク系マムルークを初めて大々的に編成したのは9世紀初頭のアッバース朝のカリフムウタスィムの時代で、ムウタスィムは即位の前から数千人のマムルークを私兵として所有していたといわれる。当時はグラーム小姓)とも呼ばれたマムルークの本格的な導入によってイスラム社会の軍隊の構成は劇的に変化し、アラブ人やマワーリーの軍団は姿を消すこととなった。やがて、彼らの呼称として「男性奴隷」を意味するマムルークの語が定着し、マムルークといえばテュルク系の遊牧民出身者を中心とする騎兵の奴隷軍事力を指すようになり始める。
アッバース朝の解体とマムルーク

マムルークの多くは遊牧民の出身で幼い頃から乗馬に慣れ親しんでいたので騎射に優れており、また素朴で忠誠心が深いことから支配者によって盛んに登用されることとなった。特に、9世紀末に中央アジアでアッバース朝から半自立の政権を築いたサーマーン朝はテュルク系の遊牧民と境を接していたことから大々的にマムルークの採用を行ったが、さらに中央アジアとイランの境であるアム川にマムルーク輸出のための税関を設けて国家事業としてマムルークの中継貿易を行った。サーマーン朝支配下のマー・ワラー・アンナフル(現ウズベキスタン中部)にはマムルークの養成施設が設立され、親元を離れて売却されてきた若い遊牧民に対してイスラム教への改宗や軍人としての教育が施された。

サーマーン朝を経てイスラム世界に入ったマムルークたちはカリフのみならずイスラム世界の各地の有力者たちに購入されて優れた軍事力を提供することになり、アッバース朝の分裂傾向を深める結果となった。またマムルークの重用の結果、解放されたマムルークの中からアミールと呼ばれる中央・地方の軍司令官に上った有力者の間から、地方で自立の政権を形成したり、中央でカリフに代わって政権を握る者すら現れた。9世紀後半にエジプトアッバース朝から自立したトゥールーン朝10世紀後半にアフガニスタンでサーマーン朝から自立したガズナ朝はいずれもマムルーク出身のアミールによって樹立された政権であり、10世紀中頃にアッバース朝の都バグダードで権力を握るマムルークのアミールを倒してカリフの保護権を掌握したブワイフ朝も、軍事力としてはマムルークに多くを依存していた。

ブワイフ朝を滅ぼしてイスラム世界の中央部を広く支配したセルジューク朝は、トゥルクマーンと呼ばれるマムルークとしてではなく部族組織を保ったままイスラム世界にやってきたテュルク系の遊牧民の出身で、王朝の建設においても部族組織に裏付けられた遊牧民の軍事力に支えられていたが、イスラム世界の中央に定着すると部族制社会の分権的・分裂的傾向を抑えるために盛んにマムルークを購入して君主スルターン)の直属軍事力とし、テュルク系の支配者がテュルク系のマムルークを奴隷として利用するようになった。


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