時1881年-1899年
場所スーダン, エジプト, ウガンダ
結果イギリス・エジプトの勝利:
領土の
変化スーダンがイギリス・エジプトの共同主権(英埃領スーダン)となる。
衝突した勢力
エジプト
イタリア王国[2]
エチオピア帝国
ベルギー[3]
コンゴ自由国 マフディスト・スーダン
マフディー戦争(マフディーせんそう、英語:Mahdist War)は、19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンのマフディー教徒とエジプト、後にイギリス軍が戦った。これはマフディーの反乱とも呼ばれ、イギリスでは自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。 1819年のムハンマド・アリーの侵略以降、スーダンはエジプトによって支配されていた(「トルコ人の支配」という意味でトゥルキヤと呼ぶ)。この植民地体制はエジプトによる重税と奴隷交易の禁止のためにスーダンの人々に憎まれていた。1870年代、モスリムのシャイフ(師匠)[4] のムハンマド・アフマドは信仰の革新と国土の解放を伝道して、多くの信者を従えていた。やがて彼らはエジプトに対して反乱を起こす。 1881年6月19日、ムハンマド・アフマドは自らを「マフディー[要曖昧さ回避]」(イスラム世界での「約束された救世主」)であると宣言した。当時のスーダン総督ムハンマド・ラウーフ・パシャ
マフディーの反乱
その後、マフディーは首都があるハルツームから遠く離れたコルドファンへの戦略的後退を始める。これは預言者ムハンマドの故事ヒジュラ(「避難」)を模倣した[6] 勝利の行進として言い表され、マフディーが唱える「トルコの圧政者」に対するジハード(聖戦)への多くのアラブ部族からの支持をかき立てた。ファショダから派遣されたエジプトの遠征部隊は12月9日の夜に待ち伏せを受けて虐殺されている[7]。
反乱の拡大を憂慮したエジプトのスーダン行政府は、ユセフ・パシャの指揮下に4000人の兵士を集めた。エジプト軍はマフディー軍の集結地に向かった。マフディー軍はみすぼらしい服装で、半ば飢え、棒と石しか持っていなかった。しかし、自信過剰になったエジプト軍はマフディー軍の前で歩哨も立てずに夜営する愚行を犯してしまう。1882年6月7日、マフディー軍は攻撃をかけ、エジプト軍を殲滅した。反乱軍は大量の武器と弾薬、軍服その他の補給品を鹵獲した[8]。 この頃、エジプト政府は英国の強い統制の下にあり、ヨーロッパ列強はスーダンでの騒動について次第に警戒するようになった。そうした本国の情勢をうけ、エジプト政府内部にあった英国顧問団は更なる部隊の派遣を黙認した。1883年夏、エジプト軍はハルツームに集結し、最終的にその兵力は歩兵7000、騎兵1000、機関銃20と大砲数門に達した。この部隊はインドで勤務した英陸軍退役将校のウィリアム・ヒックス(ヒックス・パシャ)と12人のヨーロッパ人将校が指揮を執っている。ウィンストン・チャーチルはこの部隊を「おそらく、戦争に臨んだ最悪の軍隊である」と述べている[9]。給与は支払われず、訓練はなされず、そして兵士たちは上官よりも敵に対して仲間意識があった。 遠征軍がハルツームを出発した時には、ヒックスが救援しようとしていたオベイドは既に陥落しており、成功の確信はなかったがヒックスは進軍を続けた。遠征軍が近づいていた時、マフディーは40,000人の軍隊を集め、彼らに以前の戦いで敵から鹵獲した兵器を装備させ、厳しい軍事訓練を施していた。1883年11月5日にヒックスの遠征軍と衝突したとき、マフディー軍は信頼しうる軍隊になっており、エル・オベイドの戦い この頃、大英帝国はエジプト政府の活動に深く関わるようになっていた。エジプトはヨーロッパ各国からの莫大な負債の返済に苦しんでいた[10]。エジプトはこれ以上のヨーロッパの債権者からの干渉を避けるために利子を毎回期日通りに支払うよう保証せねばならなかった。この目的のために、汚職と官僚主義にまみれていたエジプト財務省はほとんど完全に英国人「財政顧問」の支配下に置かれるようになり、財政顧問は財政政策に関するほとんどすべての事項に拒否権を有していた。財政顧問の地位にある者(最初はオークランド・コルビン
ヒックスの遠征
避難
英国の会計監査官のある種の強制により、エジプト政府はスーダンから撤退して、この地を何らかの形の自治政府(おそらくマフディー)に委ねることに決定した。だが、スーダン全土に駐留しているエジプト軍を整然と撤収させることは困難なことだった。エジプト政府は英国人士官をスーダンに派遣して駐留軍の撤退を調整させるよう要請した。マフディー軍は英国市民を攻撃することは大きなリスクとなると判断するので、撤退は無事に済むであろうという期待があった。チャールズ・ゴードン
チャールズ・“チャイニーズ”・ゴードンの派遣が提案された。ゴードンは極東での幾つかの戦役、特に中国での戦争(アロー戦争)で活躍した非常に才能のある軍人だった。しかしながら、彼は好戦性と個人的な名誉心について融通が利かないことでも知られていた[13] 。その為、幾人かのエジプトにおける英国人の高級官僚達は彼はこの任務に向かないと見ていた。とりわけ、駐エジプト英国総領事のエブリン・ベアリング(後のクローマー伯)はゴードンの任命を強く反対していたが、本国の新聞や公衆の圧力によってしぶしぶ認めざるを得なくなった。結局、ゴードンがこの任に就いたが、より分別があり、信頼できるジョン・ステュアート大佐が同行することになった。