マフィア
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インド洋の島については「マフィア島」をご覧ください。

「Mafia」はこの項目へ転送されています。「Mafia」の名前で知られるゲームについては「汝は人狼なりや?」をご覧ください。
ラッキー・ルチアーノマグショットニューヨーク市警察に逮捕された際のもの

マフィア(:Mafia)は、イタリアシチリア島を起源とする組織犯罪集団である[1]。19世紀から恐喝や暴力により勢力を拡大し、1992年段階では186グループ(マフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれる)・約4,000人の構成員がいる[1][2]。マフィアはイタリア国内ではナポリを拠点にするカモッラカラブリア州を拠点とするヌドランゲタプッリャ州を拠点とするサクラ・コローナ・ウニータ(英語版)とは区別されており、四大犯罪組織と称されている(#イタリアの犯罪組織節を参照)[1]

マフィアの一部は19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国移民し、ニューヨークシカゴロサンゼルスサンフランシスコなど大都市部を中心に勢力を拡大した[1]。1992年段階でアメリカ全土には27ファミリー・2,000人の構成員がおり[1][2]、ニューヨークを拠点とするものはコーサ・ノストラ[3]と、シカゴを拠点とするものはシカゴ・アウトフィットとも呼ぶ[1]。現在マフィアの多くは衰退し、シカゴ・アウトフィットのみが勢力を維持しているとみられている[4]

組織犯罪集団の代名詞的存在であるため、他民族もしくは他地域の犯罪組織も「マフィア」と呼ばれることがある(#「本家」以外の「マフィア」節を参照)[1]。また、市場における匿名の投機筋を「金融マフィア」などと呼ぶなど比喩的に使用される場合もある。またマスメディアにおいて、メンバーシップが限定的で排他的かつ強力な団結力を持つ組織を「?マフィア」と形容することがある[注 1]。軍隊においては軍政などにおける特定の派閥を「?マフィア」と通称することがある。(例、戦闘機マフィア (Fighter Mafia) 等)

親子分・兄弟分の契りを交わす儀式があるなど、風習もよく似た類似組織が日本暴力団ヤクザである。
歴史
発祥

シチリアの住民たちは、それまでの数世紀にわたるアラブ人やフランス人スペイン人といった外国人支配者による政治的な圧迫から、住民同士での互助組織を通じてその時々の外国人支配者に対して抵抗していた。マフィアの構成員に服従と沈黙を厳しく命じる血の掟(オメルタ)の発祥は、外国人支配者に同胞を売り渡さない(密告しない)というシチリア人の気質によるという。外国人支配の記憶からシチリア人には統治者への強い不信感が培われた。

マフィアの起源は、シチリアのガベロット(英語版)と呼ばれる農村ブルジョアジーに求める説が有力である[1]。ガベロットは大地主と農民(小作人)の中間に位置する存在である。ガベロットは大地主から農地を借り受け、農民に又貸しした。ガベロットは暴力・脅迫など合法的とは言い難い方法で農民を搾取した。ガベロットに逆らった農民は見せしめとして殺された[5]。ガベロットは自分たちの意向に背いた大地主も同様に脅迫したが、ガベロットによって山賊の襲撃から農地を守ってくれるという利点があったので、大地主はガベロットを上手く利用した。ガベロットはシチリアで強大な権限を保持し、農民に対する生殺与奪の権はガベロットが握っていた[5]

社会学者のスクルティ(Cammareri Scurti Sebastiano)はマフィアの起源を次のように説明している。侵略者の暴力、農民に対する土地貴族の暴力、マラリアの蔓延する風土の暴力、農民から搾取する借地人の暴力、強者が弱者に行う暴力などの中で、シチリア人は過酷な生活を強いられてきた。この地獄のような生活の中で、地獄に落ちたくない者は悪魔にならざるをえない。マフィアは一個人の尊厳と生活手段を保障するための一つの悪魔の行為である[6]

近代は両シチリア王国ナポリに首都を置くブルボン朝)がシチリアを統治したが、シチリア人にとってはナポリ政府も外来の存在だった。1848年にシチリアはナポリ政府からの独立を宣言したが、ナポリ政府によって再併合された[7]
19世紀

1860年サルデーニャ王国にシチリア島が統合されたことが、歴史の変換点となった。サルデーニャ王国宰相のカミッロ・カヴールは、発展が立ち遅れていて新国家成立後に必ず負担になる南イタリア及びシチリア島(どちらも両シチリア王国の領土)を、イタリア統一に含める方針は無かった[8](歴史家のマックス・ガロ両シチリア王国を、当時のイタリアの壊疽した部分と呼んだ[9])。しかしジュゼッペ・ガリバルディの千人隊の遠征により状況が変わってしまう[10]。千人隊の遠征はカヴールにとっては悪夢だった[11]

統一イタリア王国はシチリアの修道院の土地を国有化し、それを売却して国家財源に充てた。ガベロット(マフィア)は暴力や脅迫と言った法外なやり方で、売却されたそれらの土地を安く買い占めた[12]

統一イタリア王国の成立前後にブリガンテ(イタリア語版)(イタリア語表記ではBrigante)が活動を活発化させた。日本語では「山賊」「匪賊」と訳されるが定訳はない。彼らは山賊行為(略奪・放火・誘拐・その他テロ活動など)を行ったが、両シチリア王国を統治していたブルボン朝の再興を旗印に掲げるなど、反リソルジメント(北イタリアの侵略に対する抵抗)という政治的色彩も帯びていた(→南イタリア#南部問題参照)[13]。治安当局はマフィアにブリガンテの殺害を依頼した。その動機は「マフィアとブリガンテが潰しあえば、いずれの反社会勢力も弱体化し、警察の威信を示すことが出来る」という安易なものだった。これによってマフィアと治安当局との癒着が進み、ある検察長官は、マフィアと関係を持っていたパレルモ警察署長を告発したが、検察長官の方が辞任に追い込まれた[14]

マフィアは暴力と脅迫を用いた不正投票にも積極的に関与し、政界とも癒着した[15]
20世紀:戦前

経済発展が立ち遅れていた南イタリア及びシチリアの、北イタリアに対する経済格差(いわゆる南部問題(イタリア語版))は大きかった。小作農の苦しみは深刻さを増し、移民する以外にないところまで追い詰められた。また、マフィアの一部はイタリア人のアメリカ大陸への移民が増えるにつれて、アメリカ大陸においても同様の犯罪結社を作り定着した。イタリア系アメリカ人は、18世紀から19世紀前半までにアメリカに渡り定着したイングランド人ドイツ人などプロテスタント移民に大きく遅れ、19世紀末から20世紀初頭になってようやくアメリカへ入ってきた後発移民集団であった。彼らはアメリカ社会の底辺に置かれたことから、同郷出身者同士の協力関係を築くようになる。アメリカマフィアは、本来イタリア系移民の中で結ばれたこうした相互扶助の形式から発達したとされる。

ベニート・ムッソリーニはマフィアの徹底的な取り締まりを行った[16]


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