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マヌエル・アサーニャ
Manuel Azana
スペイン
第2代 大統領
任期1936年5月10日 – 1939年3月3日
スペイン
第2代 首相
任期1931年11月14日 – 1933年9月6日
スペイン
第10代 首相
任期1936年2月19日 – 1936年5月10日
出生1880年1月10日
スペイン王国・マドリード県アルカラ・デ・エナーレス
死去 (1940-11-03) 1940年11月3日(60歳没)
フランス国 ミディ=ピレネー モントーバン
政党スペイン人民戦線
マヌエル・アサーニャ・ディアス(Manuel Azana Diaz、1880年1月10日 - 1940年11月3日)は、スペインの弁護士、政治家。スペイン第二共和政首相(在職1931年 - 1933年、1936年)および最後の大統領(1936年5月10日 - 1939年4月)。 1880年1月10日、スペイン中部アルカラ・デ・エナーレスの裕福な家庭に生まれたものの、幼少の時に親を亡くした。1897年にサラゴサ大学で弁護士の資格を取得、1900年にマドリード中央大学で博士号を得た。その後、左翼共和派の代表的な政治家として台頭し、1931年にスペインでボルボン王政が崩壊すると、新たに成立した共和国政府の陸軍大臣を経て1936年に首相に就任した。 当時のスペインは革命後の政治的混乱から暴動が頻発していた上、著しく拡大していた貧富の差の是正、近代化改革の妨げとなっていたカトリック教会への対応など課題が山積していた。アサーニャが推進しようとした改革は、貧民層を満足させるにいたらなかった上、資本家、軍、カトリック教会などの保守層から反発を招き、成果を残せぬままスペイン内戦により政権崩壊へと至った。 1939年には内戦の敗北を受けてフランスのパリに亡命。翌年に同国のモントーバンで客死し、同地に埋葬されたが、ヴィシー政権は彼を国家元首の儀礼をもって葬儀を行うことを禁じた上に棺をスペイン共和国の三色旗で包む事も許さず、代わりに親共和派であったメキシコの国旗で包まれた。 彼が長年に亘って付けていた日記が2000年に出版されている(ISBN 84-8432-142-8)。 “All the convents in Madrid are not worth the life of a single Republican.”「マドリードのすべての修道院は、1人の共和党員の命に値するものではない。」(1931年5月10日に発生した修道院放火事件で、放火を容認していた事を批判された時)[1]
生涯
語録
出典^ “The Visual Front - Posters of the Spanish Civil War
関連項目モントーバンに葬られたアサーニャの墓ウィキメディア・コモンズには、マヌエル・アサーニャ
先代
ニセト・アルカラ・サモーラ首相
1931年 - 1933年次代
アレハンドロ・レルー
先代
マヌエル・ポルテラ・バリャダレス首相
1936年次代
―
先代
ニセト・アルカラ・サモーラスペイン共和国大統領
1936年 - 1939年次代
ホセ・ミアハ・メナント(Presidente del Consejo Nacional de Defensa)
表
話
編
歴
スペインの首相
イサベル2世治世下
(1833?1868)
マルティネス・デ・ラ・ローザ 1834-1835
ケイポ 1835
アラバ 1835
アルバレス・メンディサバル 1835-1836
イストゥリズ 1836
カラトラバ 1836-1837
エスパルテロ 1837
バルダヒ 1837
エレディア 1837-1838
ベラスコ 1838
ペレス・デ・カストロ 1838-1840
アントニオ・ゴンサレス 1840
フェハス 1840
コルタサル 1840
サンチョ 1840
エスパルテロ 1840-1841
フェレール 1841
アントニオ・ゴンサレス 1841-1842
ロディル 1842-1843
J. M. ロペス 1843
ゴメス・ベセラ 1843
オロザガ 1843
ゴンサレス・ブラボー 1843-1844
ナルバエス 1844-1846
フェルナンデス・デ・ピネド 1846
ナルバエス 1846
イストゥリズ 1846-1847
マッキーン 1847
パチェコ 1847
ガルシア・ゴエナ 1847
ナルバエス 1847-1849
マリア・デ・ソット 1849
ナルバエス 1849-1851
ブラボー・ムリーリョ 1851-1852
ロンカリ 1852-1853
レルサンディ 1853