マニ_(預言者)
[Wikipedia|▼Menu]
預言者マニマニ像

マニ(英語: Mani, ギリシア語: Μ?νη? または Μανιχα?ο?, ラテン語: Manes または Manichaeus, ペルシア語:????, シリア語:????, コプト語:?????????)は、サーサーン朝ペルシア時代の預言者216年4月14日- 277年2月26日[1])。マニ教開祖。日本で「マニ」と表記するのは、ヨーロッパ経由で伝来したために生じた不正確な読み方で、原音に忠実な読みでは「マーニー」である[1]が、本項目では日本語の慣例表現に属して原則「マニ」と表記する。
名称

「マニ/マネス」という名称は近代ヨーロッパに由来する。元のシリア語では「マーニー/マーネー」と呼ばれていた。このためパフレヴィー語パルティア語ソグド語アラビア語近世ペルシャ語などではこれに近い発音で呼ばれ、漢字では「摩尼」と表記された。しかしギリシア語では「マネース」、ラテン語では「マネス/マニカエウス」、コプト語では「マニカイオス」という形で伝わっていた(ラテン語マニカエウス、コプト語マニカイオスのマニと屈折語尾を除いた部分-カエ-および-カイ-は、アラム語の「ハイイェー」に相当するものだと思われる)[1]

「マニ」自体はシリア語圏ではありふれた名前だった。しかし一部資料では「クルビキオス」という名が伝わっており、パルティア人の血を引くマニの本名であると考えられている[1]

マニの尊称はシリア語で「生きている」を意味する「ハイイェー」と、「師」を意味する「マール」があり、「マーニー・ハイイェー」、「マール・マーニー」などと呼ばれていた[1]
生涯
幼少期

マニは、パルティア末期、メソポタミア平原バビロニア地方のユーフラテス川流域マルディーヌー村で、貴族の父パティークと王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれた[1]。血統から言えば「パルティアの貴公子」とも言える出自だが、本人はあまり気にしなかったらしく、マニ教の教義では重視されていない。「マーニー」という名前は東アラム語では普通の人名で、他にも多く確認できる[2][注釈 1]。このころのメソポタミアは様々な思想が流入し、ユダヤ教キリスト教ピタゴラス教団マルキオン派ミスラ教などセム系ヘレニズム・パルティアに由来する様々な思想・宗教が入り乱れていた[3]。そのよう環境下でパティークはを絶てという声を聴き、ユダヤ教・キリスト教・グノーシス主義シンクレティズム的宗教組織・エルカサイ教団(洗礼派)に入った。この教団は女人禁制で、パティークは身重の妻を放り出した。マニは初め母親に育てられるが、4歳の時父が迎えに来て、以後青春時代をエルカサイ教団内で生活することになる。なお母マルヤムは、これ以後記録に見えず、マニと交流があったのかも定かでない[4]

マニは教団でユダヤ教・キリスト教の教義やシリア語パフラヴィー語などを習得し、教団内の書物を読み漁ったと考えられている。特に『アダムの黙示録』『セト黙示録』『エノシュの黙示録』『シェームの黙示録』『エノク書』など、のちのキリスト教から外典扱いされた文献を読んでいたことが記録される。なお、この頃のゾロアスター教は書物文化が成立していなかったため、マニにとっては閉ざされた教団内で口伝を聞くことが限度だったと考えられる[5]

マニが12歳のとき、自らの使命を明らかにするの「啓示」に初めて接したといわれる[6]。成長するマニは教団内のユダヤ教・キリスト教文書では満足できなくなり、マルキオンやバル・ダイサーンの著作を手に入れ読んだと思われる。また、のちのマニ教徒に好まれた『ヨハネ行伝』・『ペテロ行伝』・『パウロ行伝』・『トマス行伝』もマニの愛読書であったといわれている[7]

240年頃、マニが24歳の時に再び聖天使パラクレートス(アル・タウム)からの啓示をうけ、開教したとされる。そして自らをセト・エノク・エノス・シェーム・ブッダザラスシュトライエスに続く、最後の預言者(諸預言者の封印)と位置づけた[疑問点ノート]。また、農業植物の中に秘められた光の要素を壊すとして、教団の成員に課されたダストマイサーン村での農作業を拒否し、教団内で問題を引き起こした。マニを快く思わない者たちが彼を袋叩きにするが、教団幹部になっていたパティークの仲裁により追放されることで折り合いがついた[8][9]
宣教活動

教団を追われたマニについてきたのは親友のアブサクヤーと友人と思われるのシメオンだけだった。彼らは新宗教を興すため、クテシフォンに向かった。道中でパティークが追い付き、謝って教団に戻るよう説得した。しかしマニは折れず、逆にパティークが教団を離脱してマニたちと行動を共にすることとなった。しかし宗教的に寛容なアルサケス朝パルティアの首都だったクテシフォンでは支配者が交代しており、ゾロアスター教を国教とするサーサーン朝ペルシアが新首都として治めていた。アルサケス家の血を引くことはマニにとってマイナスでしかなくなっていた。また言語面でもパフラヴィー語パルティア方言からペルシア方言に公用語が移り、マニの覚えたパルティア方言の地位が下がっていた。マニ一行はクテシフォンに長居せず、イラン高原オルーミーイェ湖畔ガンザクに向かった。ここでマニは少女の病気を癒し、彼女の父親からなんでも謝礼をすると言われた。そこでマニは最も慎み深い娘を求めたという。こうして病を治療された娘の姉妹がマニ一行に加わった。

数か月後、一行はガンザクを出てティグリス川河口マイサーン州の港町ファラートに向かった。ここでシリア系キリスト教徒の船に便乗してインドのデーブに上陸した。トゥーラーン・マクラーン・パールダーンなどアフガニスタン南部・パキスタン南西部・インド東南部で活動し、仏教徒だったトゥーラーンの王侯貴族やゴーヴィンデーシャなる賢者にブッタだと思われ、改宗に成功したという。2年に及ぶインド宣教によってマニは仏教の知識を得たとされる。しかしインドのマニ教コミュニティはその後消滅してしまう。メソポタミアからインドへの航路はキリスト教徒が独占しており、マニ教本部との連絡が難しかったためと思われる[8]

インドからマイサーンに戻ったマニはサーサーン家のマイサーン総督ミフル・シャーまたは王の弟でホラーサーン総督のペーローズを改宗させたといわれている。いずれにしろ王族のつてを得たマニはサーサーン朝の第2代シャーハンシャー皇帝大王)であるシャープール1世に謁見した。マニはシャープールに献上するために史上初のパフラヴィー語文献『シャーブラフガーン』を、自らの発明したマニ文字で書き記した。パティーク、シメオンに加え、ザクという弟子とともにシャープールと謁見したマニは、医者として宮廷に召し抱えられることになった。シャープールはマニを寵愛してしばしば遠征に同行させたが、これもマニに医術の心得があったからだともいわれている[10]

クテシフォンはセム系住民の多いメソポタミアに位置しており、ゾロアスター教以外の様々な宗教が入り乱れていた。シャープールは、政治的経済的重要性の高いメソポタミアを安定的に統治するために、ゾロアスター教を強制せずセム系住民の信仰をなるべく尊重した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef