マニ教
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マニ教の聖職者(「マニ教経典断簡」、タリム盆地高昌故城出土、ミニアチュール、紙本著色、8-9世紀、国立アジア美術館(旧インド美術館)所蔵) 白装束に高帽子を被ったマニ教聖職者が、掛け布をひいたテーブルに座り写経をしている場面。背景には花が咲き、マニ教徒が聖餐に用いたブドウの実がなる。西アジア起源の宗教では、「3本の木」は生命の象徴で、欠落部には元々3本の木が描かれていたと推測される。中央の色紙形は後期ソグド文字。裏にも絵・経典が記され、マニ教関係書籍の扉頁または最終ページと見られる[1][2]

マニ教(マニきょう、摩尼教、: Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャマニを開祖とする、二元論的な宗教[3]
概要

ゾロアスター教キリスト教仏教などの流れを汲み、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカイベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸一帯で広く信仰された世界宗教であった。マニ教は、過去に興隆したものの現在ではほとんど信者はおらず、消滅したとされてきたが、今日でも中華人民共和国福建省泉州市においてマニ教寺院が現存する。
教義
宗教混合

マニ教は、寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国アジア各地への伝道により広範囲に広まった[4]。マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした[5]。これについては、マニの生まれ育ったバビロニアヘレニズム的環境も大きく影響している。この地では多様な民族言語慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らない環境で、そうした折衷主義は格別珍しいことではなかった。そして、古代オリエントの住民は、各自のアイデンティティを保つため、特定の宗教・慣習・文化に執着する傾向も薄かったと考えられる[6]

マニ教はゾロアスター教を母体にユダヤ教の預言者の概念を取り入れ、ザラスシュトラ釈迦イエスを預言者の後継と解釈。マニ自身も自らを天使から啓示を受けた最後の預言者(「預言者の印璽」)と位置づけた(後述)。そのほかにグノーシス主義の影響を受けた。ゾロアスター教の影響から善悪二元論を採ったが、享楽的なイラン文化と一線を画す仏教的な禁欲主義が特徴である[7][8]
キリスト教ユダヤ教
かつての研究者は、イラン神話メソポタミア神話ゾロアスター教ズルワーン教マンダ教など、東方の宗教にマニ教の起源を求めていた。しかし、資料の発見によってマニ自身がユダヤ教・キリスト教に由来するエルカサイ教団出身であることが分かり、その思想的起源はセム的一神教にあったことが判明した。そのため、それ以外の宗教は壮年期以降に獲得したものであったとされる[9]
グノーシス主義
マニ教をグノーシス主義の一派とする見方がある。マニ教の精神・物質二元論はグノーシス主義と一致している。近年では、マニ教資料が大部分のグノーシス主義思想家を非難していることや宇宙の存在に積極的な意義を認めていることから、グノーシス主義と一線を画しているとする向きもある[10]
ミスラ教


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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