この項目では、フィリピンの都市について説明しています。
マニラ市を含むフィリピンの首都圏については「マニラ首都圏」をご覧ください。
その他については「マニラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
マニラ
Manila
市
マニラ市
Lungsod ng Maynila
City of Manila
旗
印章
標語: Linisin Ikarangal ang Maynila
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マニラ市(マニラし、タガログ語: Lungsod ng Maynila、英語: City of Manila)、通称マニラ(タガログ語: Maynila [maj?nila?]、英語: Manila [m??n?l?]、漢字表記: 馬尼剌)は、フィリピン共和国の首都。マニラ首都圏に属する市。ルソン島中西部にあり、マニラ湾東岸に位置している。
「東洋の真珠」などの美称があり、フィリピンがスペイン人によって植民地化された16世紀末よりフィリピンの首府であり、独立後も一貫して首都でありつづけている。市域人口は178万人(2015年)であり、人口1,155万人を抱えるマニラ首都圏の中核都市である。さらに近郊を含む都市圏人口は2016年時点で2,293万人であり、世界有数の大都市圏を形成している[1]。マニラ首都圏全体で首都機能を果たしているため、首都圏自体を首都とみなすこともある[2]。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界66位の都市と評価された[3]。東南アジアでは、シンガポール、バンコク、クアラルンプール、ジャカルタに次ぐ5位である。 「マニラ」という名称は、タガログ語で「ニラノキ 16世紀のスペイン人到来以前から、パシッグ川の河口にあって、マニラ湾に臨む交通の要衝であったマニラ地域には、マレー人の集落が存在しており、明朝から華僑が来航して交易を行っていた。明朝では東都(トンド)と呼ばれていた。 東洋におけるスペインの拠点を築くべく初代総督としてフィリピンへやってきたミゲル・ロペス・デ・レガスピらはマニラの地理的な重要性に着目し、ここを占領して拠点化しようと考えた。レガスピは1570年に先遣隊を派遣してマニラを占領しようとしたがうまくいかなかったため、1571年に自ら赴いてマニラを占領した。レガスピは占領した5月19日が聖ポテンシアナという聖人の祝い日であったことから、ポテンシアナをフィリピンの守護聖人とした。 レガスピが築いた最初のマニラ市「イントラムロス」は、サン・アントニオ、サン・カルロス、サン・ガブリエル、サン・ルイスの四つの地域からなり、政庁と大聖堂および中央広場、アウグスティノ会の修道院や軍事施設、宿舎などがつくられた。 中国人たちはスペイン人の占拠によって交易に支障をきたしたため、その排除を狙った。初期のマニラは中国南岸部の海賊の領袖であったと考えられるリム・アホン(林鳳
語源
歴史詳細は「マニラの歴史(英語版)」を参照
スペイン人以前
レガスピの到来1684年のマニラ
16世紀の終わりにこの地をおとずれたイエズス会員アントニオ・セデーニョは建築学の知識があったため、その指揮によってマニラの再建と要塞化がすすめられ、イントラムロスの城壁は強固な仕様に造り替えられた。イントラムロスの内部には一般の建築物と共にマニラ大聖堂、サント・ドミンゴ教会など多くの壮麗な教会が建設された。
中国人たちは依然としてアジア経済を握っていたため、マニラにおいても大きな影響力を持ち、イントラムロスの外に中国人街を築いて暮らしながら、スペイン人たちと取引をおこなっていた。スペイン人と中国人は時に敵対しながらも、共存するという関係を続けていった。こうしてマニラはフィリピン人、スペイン人、中国人の混合する街という独自の性格を形成していくことになる。
スペイン領メキシコの港町アカプルコとマニラの間にはマニラ・ガレオンによる定期航路が開設され、中国の物産がマニラ経由で輸出され、メキシコからは銀が輸入された。
スペイン時代からアメリカ時代へ1899年のマニラ
1762年には一時的にマニラがイギリス軍によって占領されたが、1764年には協定が結ばれてふたたびスペインの管轄化に入った。このころにはイントラムロスは完成しており、強固な要塞、東洋の拠点都市となっていた。交易が盛んになり、マニラを多くの人が訪れるようになると、マニラはいっそう発展し、イントラムロスの外の区域も発達していった。
スペインが強国の地位を滑り落ちた後もフィリピンとマニラはスペインの支配下にあり続けたが、19世紀になるとフィリピン人の知識人の間で独立運動が盛んになった。ホセ・リサールの啓蒙運動やカティプナンの軍事行動によりフィリピンは独立への道を進むかに見えたが、1898年の米西戦争によってマニラのスペイン艦隊がアメリカ艦隊にあっさりと撃破されると、フィリピン人たちの願いも空しく、戦後のパリ条約によってフィリピンはアメリカ領となった。一部の闘士たちはなおも抵抗したが、米比戦争が勃発し、フィリピンが完全にアメリカ領となることを避けられなかった。
アメリカ占領下のマニラでは、東洋経営の拠点としての整備がおこなわれ、イントラムロスの旧市街を保存しながら、市内を近代化するという手法でインフラなどの整備がすすめられた。有名なマニラ・ホテルもアメリカ統治時代に建設された。1935年以降、ダグラス・マッカーサーがフィリピン軍顧問という肩書きでマニラに在駐し、後に「フィリピン軍元帥」という名誉的な称号を受けている。
第二次世界大戦廃墟と化したマニラ市街(1945年)
1941年12月8日、日本がアメリカやイギリスと戦争状態に入った。これに先立つ12月6日夜、フィリピン政府はマニラ市民に対し地方に避難できる者は直ちに移動するように布告。ダグラス・マッカーサーアメリカ陸軍司令官は、バギオ市に移動してケソン大統領と協議を行った[4]。