マニュエル・サンタナ
Manuel Santana
マニュエル・サンタナ
基本情報
フルネームManuel Martinez Santana
愛称Manolo(マノーロ)
国籍 スペイン
出身地 スペイン・マドリード
生年月日 (1938-05-10) 1938年5月10日
没年月日 (2021-12-11) 2021年12月11日(83歳没)
死没地 スペイン・マルベーリャ
利き手右
バックハンド片手打ち
殿堂入り1984年
生涯獲得賞金値なし
4大大会最高成績・シングルス
全仏優勝(1961・64)
全英優勝(1966)
全米優勝(1965)
優勝回数4(仏2・英1・米1)
4大大会最高成績・ダブルス
全仏優勝(1963)
全英ベスト4(1963)
優勝回数1(仏1)
■テンプレート ■プロジェクト テニス
マヌエル・マルティネス・“マノーロ”・サンタナ(Manuel Martinez “Manolo” Santana[1], 1938年5月10日 - 2021年12月11日[2][3])は、スペイン・マドリード出身の男子テニス選手。主に1960年代に活躍し、4大大会男子シングルスで通算4勝を挙げた。クレーコートが多いスペインの選手でありながら、サンタナはサーフェスが異なる芝のウィンブルドン選手権と全米選手権でも優勝を飾り、両大会で史上初のスペイン人優勝者となった。彼は順応性に富むプレースタイルと、試合中に笑顔さえ見せるほどの気さくな人柄で高い人気を持っていた。年代的にはオーストラリアテニス界の全盛期と同時代に位置している。 サンタナは少年時代、地元のテニスクラブで球拾いの仕事を手伝い、そこからテニスを習得していった。1958年からデビスカップスペイン代表選手となる。1961年全仏選手権男子シングルスでニコラ・ピエトランジェリを4-6, 6-1, 3-6, 6-0, 6-2で破り、4大大会初優勝を飾る。1964年全仏選手権で3年ぶり2度目の優勝を果たした時も、同じピエトランジェリとの決勝を6-3, 6-1, 4-6, 7-5で制した。 サンタナがスペインの国民的英雄になったのは、1965年全米選手権優勝である。その決勝戦でクリフ・ドリスデール
来歴
第2次世界大戦後のヨーロッパ人テニス選手として国際的に高い評価を獲得したサンタナは、1973年のデビスカップを最後に現役を引退し、スペイン代表選手として史上最多記録となる「92勝28敗」の記録を残した。1984年にスペインのテニス選手としてマニュエル・アロンソ以来2人目の国際テニス殿堂入りを果たす。2006年、自らのウィンブルドン選手権優勝からちょうど40年後、男子シングルス決勝にスペインのラファエル・ナダルが勝ち上がったことから、サンタナはオールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブから特別招待を受け、ナダルとロジャー・フェデラーとの決勝を観戦した。2年後の2008年ウィンブルドン選手権において、ナダルが決勝でフェデラーを破って初優勝を果たし、スペイン人男子選手としてサンタナ以来「42年ぶり」2人目のウィンブルドン優勝者になった。
4大大会優勝
全仏選手権:2勝 (1961年, 1964年)
ウィンブルドン選手権:1勝 (1966年) [スペイン人男子選手最初の優勝]
全米選手権:1勝 (1965年)
年大会対戦相手試合結果
1961年全仏選手権 ニコラ・ピエトランジェリ4?6, 6?1, 3?6, 6?0, 6?2
1964年全仏選手権 ニコラ・ピエトランジェリ6?3, 6?1, 4?6, 7?5
1965年全米選手権 クリフ・ドリスデール(英語版)6?2, 7?9, 7?5, 6?1
1966年ウィンブルドン選手権 デニス・ラルストン6?4, 11?9, 6?4
脚注[脚注の使い方]
出典^ “Bio”. ATPTour.com. ATP Tour. 2021年12月12日閲覧。
^ “Official statement: Manuel Santana” (英語). madrid-open.com. Mutua Madrid Open (2021年12月11日). 2021年12月13日閲覧。
^ “サンタナ氏が83歳で死去、スペイン初のウィンブルドン覇者”. AFPBB News. AFP (マドリード/スペイン). (2021年12月12日). https://www.afpbb.com/articles/-/3380382 2021年12月13日閲覧。
外部リンク
マニュエル・サンタナ - 国際テニス殿堂のプロフィール (英語)
マニュエル・サンタナ - デビスカップのプロフィール (英語)