マデレイン・レングル
[Wikipedia|▼Menu]

マデレイン・レングル(Madeleine L'Engle)
誕生1918年11月29日
ニューヨークニューヨーク市
死没2007年9月7日
コネチカット州リッチフィールド
職業小説家
国籍 アメリカ合衆国
活動期間1945年 - 2007年
ジャンル小説、詩、エッセイ
主題SFファンタジーなど
代表作『五次元世界の冒険』および続編群
公式サイト ⇒Official website
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

マデレイン・レングル(Madeleine L'Engle、1918年11月29日 - 2007年9月6日[1]はアメリカ合衆国の小説家。ジュヴナイル小説で知られ、特にニューベリー賞受賞作の『五次元世界のぼうけん』およびその続編群『エクトロスとの戦い』、『時間をさかのぼって』、"Many Waters"(未訳)、"An Acceptable Time"(未訳)で有名。レングルの作品には、現代科学に対する彼女の強い興味が反映されている。例えば『五次元世界の冒険』においては四次元超立方体が取り上げられ、『エクトロスとの戦い』ではミトコンドリアDNAが、"The Arm of the Starfish"(未訳)では再生が、それぞれ重要なタームとなっている。

姓の表記はラングルとも(サンリオの訳書における表記)。
若年期

マデレイン・レングル・キャンプ(Madeleine L'Engle Camp)は1918年11月29日に生まれた。名前は曾祖母にちなんで付けられ、マド(Mado)と愛称された。母(同名)はピアニスト、父チャールズ・ワズワース・キャンプ(Charles Wadsworth Camp)は作家・批評家・海外特派員であった。彼は大戦中に吸ったマスタードガスのために肺を病んでいた(ただし2004年の「ザ・ニューヨーカー」誌で親類が主張したところによると、彼の肺病は戦傷ではなくアルコール中毒が原因である)。

レングルが最初に物語を書いたのは5歳の時で、日記を付け始めたのは8歳の時であった[2]。これら早期の文学的試行は学業成績の向上には結びつかなかった。内気で不器用な子供であった彼女を、愚鈍と決め付ける教師も少なくなかった。認められない彼女は読書および創作という自分の世界に閉じこもるようになった。それを心配した両親は彼女を寄宿学校へ入れたり、家庭教師を付けたりした[3]。一家は頻繁に引越しをした。一度はアルプスの麓、フランスのシャモニーに住んだこともある。その地の清浄な空気は父の肺に好都合だったとレングルは書き記している。彼女はスイスの寄宿学校に通ったが、1933年に一家はアメリカ(フロリダ州北部)に戻り、レングルはサウスカロライナチャールストンの寄宿学校に転校した。1935年に父が死亡したが、レングルはその今際の時に居合わせることができなかった[4]
成年期

レングルは1937年にスミス大学に入学し、1941年に優等で卒業した[5]。その後ニューヨーク市に移った彼女は、1942年に俳優のヒュー・フランクリン(Hugh Franklin)と出会い、チェーホフの『桜の園』の舞台に出演した[6]。2人は1946年1月26日に結婚した。翌年、レングルは最初の小説"The Small Rain"を刊行した。1947年、長女のジョゼフィンが産まれた。

1952年、彼らはコネチカット州の田舎の、200年以上を経た農家に移り住んだ。小さな雑貨店を買い取って経営する傍ら、レングルは小説を書いた。同年、息子のビオン(Bion)が誕生[7]。4年後、死んだ友人の娘マリア(7歳)を引き取り、養子にする。この時期、レングルは会衆派教会で指揮者としても働いた[8]
作家業

1959年、一家はニューヨーク市に戻り、夫は俳優業を再開した。レングルが代表作『五次元世界のぼうけん』の着想を得たのは引越しの直前、10週間のキャンプ旅行中のことであった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:31 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef