マテウシュ・モラヴィエツキ
Mateusz Morawiecki
第17代 ポーランド共和国首相
任期
2017年12月11日 ? 2023年12月13日
大統領アンジェイ・ドゥダ
代理官ピョトル・グリンスキ
マテウシュ・ヤクプ・モラヴィエツキ(ポーランド語: Mateusz Jakub Morawiecki、1968年6月20日 - )は、ポーランドの政治家。同国首相(第17代)を6年間務めたほか、ベアタ・シドゥウォ内閣で副首相や開発相、財務相を歴任した。 物理学者で独立自主管理労働組合「連帯」の指導者でもあったコルネル・モラヴィエツキと妻ヤドヴィガの子として、ヴロツワフに生まれる。幼くして反共産主義運動に身を投じ、非合法な政治出版物の印刷などに従事した。12歳だった1980年8月には、ヴロツワフ市内各所に「下シロンスク時報」の壁新聞を掲示してまわった。壁新聞ではいわゆる「グダニスクの要求」が列挙された上で、ポーランドのバルト海沿岸各地でのゼネストが呼びかけられていた。1981年の戒厳令発令後も、連帯の機関紙の印刷・頒布といった地下活動を行った。 内務省保安部には幾度も逮捕され、過酷な訊問を受けたが、1980年代末まで政治活動を続けた。1988年から1989年には、ヴロツワフ大学を占拠してのストライキに参加した。政治思想結社「自由と連帯」を共同で旗揚げし、「下シロンスク時報」の編集にも携わった。 社会主義体制崩壊後はヴロツワフ大学(史学、1992年卒)やヴロツワフ工科大学(1993年卒)、ヴロツワフ経済大学(経営管理、1995年卒)、ハンブルク大学(欧州法・欧州統合、1995年 - 97年在籍)、バーゼル大学(欧州研究、1995年 - 97年在籍)で学んだ。ヴロツワフ工科大在学中はセントラル・コネチカット州立大学に留学したほか、ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の上級エグゼクティブ・プログラムを修了した。 1991年、出版会社2社を共同で設立。また、ドゥヴァ・ドニ(Dwa Dni、「2日間」)という雑誌を共同で創刊し、編集長に就任した。 1995年にはドイツ連邦銀行のインターンシップに参加し、信用分析や財政再建、銀行監督、金融市場監督などを学んだ。1996年から1997年には、フランクフルト大学で銀行やマクロ経済の研究に従事。1998年には、欧州統合委員会加盟交渉局副局長として、ポーランドの欧州連合 (EU) 加盟交渉に金融などのさまざまな分野で関与した。また、ポーランド初のEU法の専門書を共同で編集した。 1996年から2004年まで、ヴロツワフ経済大で講師を勤めた。1996年から1998年には、ヴロツワフ工科大でも教えていた。多くの高等教育機関の運営委員会に名を連ねたほか、複数の企業で取締役を務めた。1998年から2002年まで、ドルヌィ・シロンスク県議会議員でもあった。 1998年11月、サンタンデール銀行傘下の西WBK銀行監査委員会副委員長に就任し、経済分析局や国際貿易部の監督を請け負った。その後、2001年に専務、2007年には頭取となり、2015年まで在職した。 2015年11月16日には、ベアタ・シドゥウォ内閣のもとで副首相兼開発相に就任した。 2016年9月28日、モラヴィエツキはシドゥウォ内閣の財務相に任命された。これによって予算や国家財政、EU関連の資金および経済政策全般をつかさどる、閣内でシドゥウオに次ぐ強い権限を持つ閣僚となった[1]。 これに先立ってモラヴィエツキは、「モラヴィエツキ・プラン」と呼ばれる野心的な開発計画を発表した。これは経済成長を促すことで国家歳入の増加を図るもので、2人以上の子どもがいる家族を対象とした「ファミリー500+」という子ども手当などが含まれていた[2]。 2017年3月18日から19日には、ドイツのバーデン=バーデンで開催されたG20財務相会合に出席した。ポーランドの代表が同会合に加わったのは、これが初めてであった[3][4]。 2017年12月8日、辞任したシドゥウオの後任としてポーランドの首相に指名され、その3日後に正式に就任した[5]。就任後初の演説では、前政権の政策を継続することを公約した[6]。 2018年1月にワルシャワで人種差別事件が起きた際は「ポーランドにレイシストの居場所はない。
経歴
首相職