マティ・アルー
Matty Alouセントルイス・カージナルス時代
(1971年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
出身地サン・クリストバル州バホス・デ・ハイナ
生年月日 (1938-12-22) 1938年12月22日
没年月日 (2011-11-03) 2011年11月3日(72歳没)
身長
体重175 cm
81 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1957年
初出場MLB / 1960年9月26日
NPB / 1974年7月26日
最終出場MLB / 1974年6月21日
NPB / 1976年9月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
ハイナ高等学校
サンフランシスコ・ジャイアンツ (1960 - 1965)
ピッツバーグ・パイレーツ (1966 - 1970)
セントルイス・カージナルス (1971 - 1972)
オークランド・アスレチックス (1972)
ニューヨーク・ヤンキース (1973)
セントルイス・カージナルス (1973)
サンディエゴ・パドレス (1974)
太平洋クラブライオンズ (1974 - 1976)
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マテオ・ロハス・アルー(Mateo Rojas "Matty" Alou、1938年12月22日 - 2011年11月3日)は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手(外野手)。
兄のフェリペ・アルーと弟のヘスス・アルーも元メジャーリーガー。また、モイゼス・アルーは甥にあたる。 サンフランシスコ・ジャイアンツで最初の数年間は控え選手であったが、1962年に同率首位で並んだロサンゼルス・ドジャースとの3試合制プレーオフ最終戦で9回に反撃の口火を切るセーフティバントを決め、チームは逆転でワールドシリーズ進出を果たす。 1963年には、シーズン終盤の9月15日に弟ヘススがメジャーに昇格。当時の監督アルヴィン・ダークの計らいで、すでにレギュラーとして活躍していた兄フェリペとともに兄弟3人で外野を守った事がある。この時には、スター選手のウィリー・メイズがベンチに退いた。なお、フェリペは翌年ミルウォーキー・ブレーブスに移籍し、三兄弟がチームメイトとなったのはわずかな期間のみであった。 1966年にピッツバーグ・パイレーツにトレードされると、名コーチのハリー・ウォーカー
経歴
1974年シーズン途中に太平洋クラブライオンズに入団し、来日。当時のチームメイト東尾修が「ピッチャー横を抜いて三遊間前へ転がすセーフティバントなど、初めて見た」と語るように小技もうまい一方、3打席連続本塁打を放つほどのパンチ力もある優れた選手だった。1976年に退団し、帰国。
その後は母国ドミニカ共和国のウィンターリーグで監督を務める。
2011年11月3日、ドミニカ共和国で死去[1]。72歳没。
詳細情報
年度別打撃成績