マティ・アルー
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はロハス、第二姓(母方の)はアルーです。

マティ・アルー
Matty Alouセントルイス・カージナルス時代
(1971年)
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
出身地サン・クリストバル州バホス・デ・ハイナ
生年月日 (1938-12-22) 1938年12月22日
没年月日 (2011-11-03) 2011年11月3日(72歳没)
身長
体重175 cm
81 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1957年
初出場MLB / 1960年9月26日
NPB / 1974年7月26日
最終出場MLB / 1974年6月21日
NPB / 1976年9月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


ハイナ高等学校

サンフランシスコ・ジャイアンツ (1960 - 1965)

ピッツバーグ・パイレーツ (1966 - 1970)

セントルイス・カージナルス (1971 - 1972)

オークランド・アスレチックス (1972)

ニューヨーク・ヤンキース (1973)

セントルイス・カージナルス (1973)

サンディエゴ・パドレス (1974)

太平洋クラブライオンズ (1974 - 1976)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

マテオ・ロハス・アルー(Mateo Rojas "Matty" Alou、1938年12月22日 - 2011年11月3日)は、ドミニカ共和国出身のプロ野球選手外野手)。

兄のフェリペ・アルーと弟のヘスス・アルーも元メジャーリーガー。また、モイゼス・アルーは甥にあたる。
経歴

サンフランシスコ・ジャイアンツで最初の数年間は控え選手であったが、1962年に同率首位で並んだロサンゼルス・ドジャースとの3試合制プレーオフ最終戦で9回に反撃の口火を切るセーフティバントを決め、チームは逆転でワールドシリーズ進出を果たす。

1963年には、シーズン終盤の9月15日に弟ヘススがメジャーに昇格。当時の監督アルヴィン・ダークの計らいで、すでにレギュラーとして活躍していた兄フェリペとともに兄弟3人で外野を守った事がある。この時には、スター選手のウィリー・メイズがベンチに退いた。なお、フェリペは翌年ミルウォーキー・ブレーブスに移籍し、三兄弟がチームメイトとなったのはわずかな期間のみであった。

1966年ピッツバーグ・パイレーツにトレードされると、名コーチのハリー・ウォーカーから指導を受けた事が彼の野球人生において大きな転機となる。同年は打率.342で自身初タイトルとなる首位打者を獲得。しかも兄フェリペは打率2位になり、兄弟でのワンツーフィニッシュとなった。その後も打率5位以内に4回入るなどの活躍を見せる。1972年途中にオークランド・アスレチックスに移籍し、同年のワールドシリーズでは全試合に先発出場し1安打に終わるもチームはワールドチャンピオンに輝く。

1974年シーズン途中に太平洋クラブライオンズに入団し、来日。当時のチームメイト東尾修が「ピッチャー横を抜いて三遊間前へ転がすセーフティバントなど、初めて見た」と語るように小技もうまい一方、3打席連続本塁打を放つほどのパンチ力もある優れた選手だった。1976年に退団し、帰国。

その後は母国ドミニカ共和国ウィンターリーグで監督を務める。

2011年11月3日、ドミニカ共和国で死去[1]。72歳没。
詳細情報
年度別打撃成績



度球











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