マティアス・ヤーコプ・シュライデン
Matthias Jakob Schleiden
生誕Matthias Jakob Schleiden
(1804-04-05) 1804年4月5日
神聖ローマ帝国
自由ハンザ都市ハンブルク
死没 (1881-06-23) 1881年6月23日(77歳没)
ドイツ帝国
プロイセン王国 フランクフルト・アム・マイン
国籍 ドイツ帝国
研究分野植物学、生物学、哲学、歴史学
研究機関フリードリヒ・シラー大学イェーナ
ドルパート大学
出身校ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク
ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲン
フンボルト大学ベルリン
主な業績植物の細胞説を提唱(1838年)
影響を
受けた人物テオドール・シュワン
影響を
与えた人物ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ
エルンスト・ヘッケル
ヤーコプ・フリードリヒ・フリース
命名者名略表記
(植物学)Schleid.
プロジェクト:人物伝
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シュライデンによる様々なクラゲの図
マティアス・ヤーコプ・シュライデン(ドイツ語: Matthias Jakob Schleiden、1804年4月5日 ? 1881年6月23日)は、神聖ローマ帝国(現ドイツ)ハンブルク出身の植物学者、生物学者。元々は弁護士であった。 1838年にシュライデンと同じくフンボルト大学ベルリンで研究していた同国出身の動物学者テオドール・シュワンと知り合い[1]、シュワンと食事をしていた所、植物の細胞の話になり[2]、お互い「あらゆる生物は細胞から成り立っている」と言う意見が一致した。シュライデンは同年1838年に論文『植物発生論(Beitrage zur Phytogenesis)』の中で「植物は独立した細胞の集合体」であるとして植物の細胞説を、シュワンは1839年に論文『動物及び植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』で動物の細胞説を提唱し[3]、こんにち呼ばれる「細胞説」の提唱者として名高い。 その他の業績に、従来の乾燥標本による分類学的植物学に強く反対し、植物学研究に顕微鏡などの物理学的、化学的な機械器具の導入を主張した業績でも名高い[4]。
業績
1804年4月5日、ハンブルクに生まれる。シュライデンの父は地元ハンブルクでは著名な医師であった[4]。大学はルプレヒト・カール大学ハイデルベルクへ進学し、1826年に法律の博士号を修得した。学位を修得後ハンブルクに戻り、弁護士として生計を立てようとするものの成功せず、失意の末1832年にピストルで自殺未遂を起こしている[4][5]。
自殺未遂を悔い改めて、その後は自然科学に興味を示し、ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンで医学を修めた。