マツダ・コスモ
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マツダ・コスモ
4代目(ユーノスコスモ)
概要
別名コスモスポーツ(初代)
コスモAP(2代目)
ユーノス・コスモ(4代目)
製造国 日本
販売期間1967年-1972年(初代)
1975年-1996年(2-4代目)
ボディ
ボディタイプ2ドアクーペ
2/4ドアハードトップ(3代目)
4ドアセダン(3代目)
駆動方式後輪駆動
系譜
後継マツダ・RX-8
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コスモ(: Cosmo)は、マツダがかつて生産・販売していた乗用車である。

1967年5月に日本車初のロータリーエンジン搭載車として発売され、1972年の販売終了をもって一時的に絶版となるも1975年に復活。1990年には前年から展開されたユーノスブランドのフラッグシップモデル「ユーノス・コスモ」として登場し、1996年まで販売された。

全ての世代においてクーペタイプのボディを持つ(3代目のみ4ドアセダンも設定)が、その性質は世代によって大きく異なる。また、3代目以外は世代ごとに異なるサブネームをつけて販売されていた。
初代・コスモスポーツ(1967年 - 1972年)

マツダ・コスモスポーツ(初代)
L10型
[1]
前期型


概要
製造国 日本
販売期間1967年5月 - 1972年9月[1]
設計統括山本健一
デザイン小林平治
ボディ
乗車定員2名
ボディタイプ2ドアクーペ
エンジン位置フロント
駆動方式後輪駆動
パワートレイン
エンジン10A型 982cc 2ローター
最高出力110PS/7,000rpm(L10A)
128PS/7,000rpm(L10B)
最大トルク13.3kgf・m/3,500rpm(L10A)
14.2kgf・m/5,000rpm(L10B)
変速機4速MT(前期)/5速MT(後期)
サスペンション
ダブルウィッシュボーン
ドデオンチューブ
車両寸法
ホイールベース2,200/2,350mm(前期/後期)
全長4,140mm(前期)
全幅1,595mm
全高1,165mm
車両重量940kg(前期)
その他
生産台数1176台[1]
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1967年昭和42年)5月に発売されたコスモスポーツは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載した自動車である。

世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確にはNSU1964年(昭和39年)に発売したリアエンジン車のヴァンケルスパイダーであったが、この車に搭載されたエンジンはロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであった。これに対し、コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。また、ヴァンケルスパイダーはシングルローターエンジンであったため、10A型は多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンである。

1968年(昭和43年)8月、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レース「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、ポルシェランチアBMWサーブオペルシムカダットサンなどと激戦を繰り広げた。結果はポルシェ、ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)で完走した。なお、参加した59台中、完走したのはわずか26台であった。

コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それ以降もファミリアロータリークーペサバンナGTなどに搭載された。10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジングまで含めて総アルミニウム合金製であった。コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)が鋳鉄製に変更されている。コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼が溶射されていて高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波焼入れ加工したものが採用され、量産化と低コスト化が図られている。また、加工法もコスモスポーツの砂型鋳造に対し金型鋳造とされ、大量生産された。

コスモスポーツは、前期型(L10A型)が1967年(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、1972年(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車まで累計1,176台が販売された。
プロトタイプ

1963年(昭和38年)10月26日から11月10日に開催された第10回全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)に、マツダロータリーエンジンとして400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類の試作エンジンが出展され、あわせて「ロータリーエンジン テスト用試作車(コスモスポーツのプロトタイプ)」の写真パネルも会場に掲示された[2]。車両の展示はなかったが[注釈 1]、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツの一次試作車「MAZDA 802 (L402A)」のステアリングを握り、遠路はるばる広島から自動車ショーの会場に乗りつけて話題をさらった。また、帰路には各販売会社、メインバンク住友銀行池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。なお、初めてコスモスポーツのプロトタイプが一般に公表されたのは、自動車ショーが開催される6日前の1963年10月20日付けの朝日新聞紙上[4]であり、これは朝日新聞のスクープであった。

一次試作車は少なくとも2台存在し、「広 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年8月登録)が取りつけられた個体は、前後ウィンドウのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行式の3ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置は下寄り、カーラジオのアンテナの取付け位置はリアガラスとトランクリッドの間、横長のテールランプは中央に仕切りのある四灯タイプ、という仕様であった[5][6][7][8]。「広 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年10月登録)が取りつけられた個体は、前後ウィンドウのウェザーストリップにメッキモールがあり、ワイパーは平行式の2ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置はピラーの中央、カーラジオのアンテナの取付け位置は右リアフェンダー上部、横長のテールランプは中央に仕切りがなく外観上は2灯式に見えるものであった(内部に仕込まれていたランプの数は、32-85車に準じていたと思われる)[9][10][11]

この2台の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車ショーの駐車場に姿を現した[12]。一次試作車は、自動車ショーが開催されるまでに5台製作されている[12]

1964年(昭和39年)の9月26日から10月9日にかけて開催された第11回東京モーターショーに、初めて実車(プロトタイプ)が正式に出展された。出展時の名称は「MAZDA COSMO」であった。搭載されたエンジンは、399cc×2ローターのL8A型(70ps/6,000rpm)で、二次試作車にあたり、一次試作車とはテール部分の意匠が大幅に異なり量産型に近いものとなっていた。また、サイドウインドウに三角窓が追加され、ワイパーは2ブレードの対向式となり、外観上の特徴の一つであるフロントフェンダーのルーバーが、一次試作車の6つ穴メッキ物から細いスリットのメッキ物に変更されていた[13]。二次試作車までは、ルーフの後部に左右のクォーターピラーまで覆う白いカバーが取りつけられていた[14]ことも、外観上の大きな特徴であった。二次試作車は複数製作され、ワイパーが平行式2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴のホイールが装着されたもの、センターロック式のワイヤースポークホイールが装着されたもの、クォーターピラーの幅が狭いもの、カウルトップの通気口が一次試作車と同様に格子状のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状でないもの、ドアのアウターハンドルが長くドアパネルに窪みがないもの、フロントウインカーのレンズがアンバー色のものなど、様々な仕様が存在した[15][16][17]

1965年(昭和40年)10月29日から11月1日に開催された第12回東京モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称はこの年も「MAZDA COSMO」であった。ショーの会場で配布されたパンフレットには「革命的なエンジンは(中略)ローター数2、単室容積500cc」と記載されていたことから、出展車には491cc×2の10A型エンジンのプロトタイプが搭載されていたと考えられる。三次試作車と思われる出展車は、白いルーフカバーが省略されルーフ全面とクォーターピラーが白塗装となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠が少々変更されていた。また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接スリットをプレス成型した簡素なものとなっていた。これは、部品点数と製造ラインでの工数を削減しコストを下げるための設計変更とされる。この時の展示車は最終生産型と発表され、全国各地のマツダディーラーに委託して実用化テストを行うことが発表された[18]。「社外委託試験車」と名付けられた試作車は、車体各部の特徴から三次試作車の「MAZDA COSMO」あるいは三次試作車の改良型だったと推察される。社外委託試験は当初、1965年(昭和40年)8月から開始され、30台が試験車として貸与される予定であった[19]

1966年(昭和41年)10月26日から11月8日に開催された第13回全日本自動車ショーにも、続けてコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称は「MAZDA COSMO SPORTS」だった(市販モデルの名称は「MAZDA COSMO SPORT」)。実用化テストに基づいてさらなる改良が加えられ、1967年(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた[20]

市販までに、社外委託試験は各地のディーラーに貸与された「MAZDA COSMO」47台[21]により、1966年(昭和41年)1月から12月まで1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。
前期型

コスモスポーツの前期型L10Aには、10A型ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載された。9.4の高圧縮比とツインプラグによって110 PS /7,000 rpm、13.3 kgf・m /3,500 rpm を発生する。車重は940kgと比較的軽量であった。

エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったフロントエンジン・リアドライブであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架、リアは独立懸架こそ断念されたが、バネ下重量の軽減を図り、ド・ディオンアクスルをリーフスプリングで吊る形式が採用された。ステアリングギアにはクイックなラック・アンド・ピニオン形式を採用している。トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィン・ドラムであった。なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。

ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に搭載され、後のマツダのアイデンティティーともなるフロント・ミッドシップの発想が既に生かされていた。重量物であるバッテリーは、前期型ではトランクに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。
ボディ

ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミモノコック方式である。ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルティカー然としたものであった。また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前ヒンジ(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。開発当初、当時の社長である松田恒次から「売り出すつもりのないイメージカーだ」と言われたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともされる。

全高は1,165 mm と低かった。「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナー小林平治の意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・オーバーハング、ボディー中央を走るプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。ボンネットの低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的である。


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