マッテオ・レンツィ
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イタリア政治家マッテオ・レンツィMatteo Renzi
2015年
生年月日 (1975-01-11) 1975年1月11日(49歳)
出生地 イタリア
トスカーナ州フィレンツェ県
フィレンツェ
出身校フィレンツェ大学
所属政党イタリア人民党(1996年 - 2002年)
マルゲリータ(2002年 - 2007年)
イタリア民主党(2007年 - 2019年)
イタリア・ヴィヴァ(2019年 - )
配偶者アニェーゼ・ランディーニ
サイン
第63代イタリア閣僚評議会議長
内閣レンツィ内閣
在任期間2014年2月22日 - 2016年12月12日
大統領ジョルジョ・ナポリターノ
セルジョ・マッタレッラ
フィレンツェ市長
在任期間2009年6月22日 - 2014年2月22日
前任者レオナルド・ドメニチ
フィレンツェ県知事
在任期間2004年6月14日 - 2009年6月22日
前任者ミケーレ・ゲスアルディ
第5代民主党書記長
在任期間2013年12月8日 - 2017年2月19日
前任者グリエルモ・エピファーニ
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マッテオ・レンツィ(イタリア語: Matteo Renzi, イタリア語発音: [mat?t?o ?r?ntsi]、1975年1月11日 - )は、イタリア政治家

閣僚評議会議長(首相、第63代)、民主党書記長(第5代)、フィレンツェ市長(1期)、フィレンツェ県知事(1期)を務めた。
経歴
地方政治家
フィレンツェ県知事

フィレンツェ出身。フィレンツェ大学で法律を学んだ、在学中の1995年、ロマーノ・プロディの後援組織に関わったことで政治の世界に足を踏み入れた[1]。1996年、キリスト教左派の政治家が再結党したイタリア人民党に入党、1999年にはフィレンツェ州党書記に選出された。

2002年、「マルゲリータ・民主主義とは自由」への合流に参加する。2004年、フィレンツェ県知事にマルゲリータの公認候補として出馬、中道左派の選挙連合「ルニオーネ」からの支持も受けて59%の得票で当選した。2007年、ルニオーネの諸政党が合流してイタリア民主党が結党されると、中道左派の派閥に参加した。
フィレンツェ市長

2009年、フィレンツェ市長選にイタリア民主党から出馬、中道右派連合が擁立したジョバンニ・ガッリを抑えて当選した[2]

市長に就任すると次々と改革を行った。市会議員の定員を半減させ、自治体関係の公用車を減らして歳出を削減した。一方で、公立学校の新設・改修に5100万ユーロ、社会福祉関連事業に2500万ユーロを投じ、幼稚園の待機児童を90%減らした。また、観光業を推進するために、市の歴史地区への一般車両乗入を禁止し、公衆無線LANスポットも500カ所設置した。これによって、年間800万人の観光客を呼び込み、新規雇用の創出にも力を入れた。直接的に市歳入を増やすため、歴史的な施設・広場を企業イベントや結婚式のために有料で貸し出したが、これは周辺住民からの反発もあり議論を巻き起こした[1]
民主党書記長

2012年、指導部の若返りを掲げて党書記長選挙に出馬するが39%の得票に留まり、イタリア共産党時代からのキャリアを持つベテラン政治家のピエル・ルイジ・ベルサーニに敗北した。

ベルサーニは中道右派連合の諸政党が合流した自由の人民と協議を重ね、ジョルジョ・ナポリターノ(元イタリア共産党)に代わる大統領としてフランコ・マリーニ元上院議長を擁立したが、レンツィは不支持の意向を表明した。マリーニを「カリスマ性も国際的評価もない前世紀からの候補者」と批判、妥協的な人事に対して議会内にいる自派50名はマリーニの大統領就任案に投票しないと述べた。結局、再選を固辞していたナポリターノが大統領を続投する事となり、混乱の責任を採ってベルサーニは党書記長を辞任した[3][4]

2013年、同年の党書記長選挙に出馬。ポピュリズムの台頭や大連立政権などの混乱した政局に対して清新な中道政治の復活を掲げ、68%を獲得して書記長に選出された。
首相

2014年2月14日、大連立政権を率いるエンリコ・レッタ首相(民主党所属)が改革を進められていないとして、党役員会で首相辞職を勧告。レッタはレンツィとの会談後に辞表を提出した。2月17日、ナポリターノ大統領より後任の首相に指名され[5]、わずか2カ月足らずの間にフィレンツェ市長から首相へと上り詰めた。2月22日、組閣作業を完了させて正式にレンツィ内閣が発足した。閣僚ポストを21から16に減らし、そのうち8つは女性が就任した[6]

39歳での首相就任はベニート・ムッソリーニの記録を抜いてイタリア史上最年少となる[1]。レンツィは重要な改革を毎月1つずつ実行すると約束し、経済の抜本的改革を進める構えを見せた。また、議会で「イタリアは単なる美しい観光地であってはならない」と訴えた[1]。また首相就任後初の外遊先として、ブリュッセル(EU本部がある)でもアメリカでもなくチュニジアを選んで内外を驚かせた[1]ヨーロッパ連合では、ドイツ首相 アンゲラ・メルケルの政策に反対する首脳たちの中心的な存在となった[7][8]

2014年、欧州議会議員選挙で民主党が41%の得票で大勝した。他のEU諸国ではEU懐疑派や反体制の政党が大勝していたが、イタリアはこの潮流に逆らう結果となった。また、それまで選挙を経ていなかったレンツィへの国民の信任が初めて示されたとされた[9]。同年3月、内閣は国の首脳たちのために使われていた マセラティジャガーBMWアルファロメオ など1500台の高級車を競売にかけた。そのうち170台はeBayを通じて直ちに売れた[10]

2015年1月31日、大統領選挙の第4回投票において自らの支持するマッタレラを大統領に当選させた[11]。同年8月には初来日している。
退陣

首相としては左派ながら自由主義的な経済改革を進め、労働市場改革などで企業の業績を向上させていたが[12]、貧富の格差も広がって労働者層の離反を招いている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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