マッチ売りの少女
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A. J. Bayes (1889) による挿絵

マッチ売りの少女(マッチうりのしょうじょ : Den lille Pige med Svovlstikkerne)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの創作童話の一つ。
概要

アンデルセンは、1枚の木版画から着想を得てこの作品を書いた。1845年11月、彼のもとに編集者から手紙と3枚の絵が届く。この中の1枚を材料に童話を書くようにという依頼なのだが、彼が選んだのはマッチを持つ少女の後姿を描いた木版画だった[1]。母の貧困な生育環境について、アンデルセンはよく聞かされていた[2]が、貧困のうちに亡くなった母を思い出してこの作品が生まれたとされている[3][4]。母の少女時代をヒントにした[5]とも、貧しい者を見捨てる当時のデンマーク社会への批判ともいわれている[6]。母ではなく祖母の少女時代をモデルにしたという説もある[7]

なお、彼の母が少女時代にマッチを売っていた、という説があるが、母アネ・マリー・アナスダター(Anne Marie Andersdatter)は1775年生まれ(諸説あり)、1833年死去[8]である。一方、マッチが発明されたのは1827年、母が52歳のときである[9]ため、この説は誤りである[6]

1845年12月に出版された「Dansk Folkekalender for 1846」(デンマーク民話カレンダー1846年版)が初出。その後、1848年刊の「Nye EventyrU-2」(新・童話集 第二集二巻}に収録された[10]

アメリカの絵本では、主人公の少女は死ぬ直前に心優しい金持ちに助けられるという結末に改変されている場合がある[3][4]
ストーリー

年の瀬も押し迫った大晦日の夜、小さな少女が一人、寒空の下で靴も履かずに裸足でマッチを売っていた[11]。マッチが売れなければ父親にぶたれるので、すべてを売り切るまでは家には帰れない。しかし、街ゆく人々は、年の瀬の慌ただしさから少女には目もくれず、目の前を通り過ぎていくばかりだった。

夜も更け、少女は少しでも暖まろうとマッチに火を付けた。マッチの炎と共に、暖かいストーブ七面鳥などのごちそう、飾られたクリスマスツリーなどの幻影が一つ一つと現れ、炎が消えると同時に幻影も消えるという不思議な体験をした。

天を向くと流れ星が流れ、少女は可愛がってくれた祖母が「流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴なのだ」と言ったことを思いだした。次のマッチをすると、その祖母の幻影が現れた。マッチの炎が消えると祖母も消えてしまうことを恐れた少女は、慌てて持っていたマッチ全てに火を付けた。祖母の姿は明るい光に包まれ、少女を優しく抱きしめながら天国へと昇っていった。

新しい年の朝、少女はマッチの燃えかすを抱えて幸せそうに微笑みながら死んでいた。この少女がマッチの火で祖母に会い、天国へのぼったことは誰一人知る由はなかった。街の人々は教会で少女の死を心から悼み、教会で祈りを捧げるのだった。
文学作品以外のメディア
戯曲

別役実 『マッチ売りの少女』(1966年、早稲田小劇場)

オペラ・声楽曲

アウゴスト・エナ作曲:オペラ『マッチ売りの少女』[12]
1897年11月13日コペンハーゲンで初演。1幕。1897年出版。Ove Rodeによるテキスト[13]

ヘルムート・ラッヘンマン作曲:オペラ『マッチ売りの少女』
1997年に初演された。台本には、本作のほかにレオナルド・ダ・ヴィンチ[14]と、ドイツ赤軍の創設者の一人グドルン・エンスリン[15]のテキストが用いられている。楽器にを用いる[16]

デイヴィッド・ラング作曲:『マッチ売りの少女受難曲』
2007年に作曲された。バッハの『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』を下敷きとしながら、ラング独特のポストミニマル・ミュージック的かつ強烈な音響で作曲されている[17]2008年ピュリッツァー賞を受賞した[18]
実写映画

The Little Match Seller
監督:ジェイムズ・ウィリアムソン(1902年 イギリス[19]


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