マッスル坂井
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マッスル坂井

プロフィール
リングネームマッスル坂井
スーパー・ササダンゴ・マシン
魔ッスル坂井
スーパー・蛇蛇ダンゴ・マシン
本名坂井 良宏[1][2][3]
ニックネームマッスル・オブ・ジョイトイ
ササダンゴ
SSM
越後の殺戮マシニングセンタ
超高性能御当地芸能戦士
身長186cm
体重120kg
誕生日 (1977-11-05) 1977年11月5日(46歳)
出身地新潟県新潟市(現・新潟市東区
所属坂井精機
DDTプロレスリング(プロレスリング活動、準所属)
SLUSH-PILE.(タレント活動等、業務提携)
スポーツ歴剣道
トレーナーアニマル浜口
デビュー2004年7月31日
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マッスル坂井(マッスルさかい、本名:坂井 良宏[1][2][3]〈さかい よしひろ〉、 1977年11月5日 - )は、日本プロレスラー[4]実業家タレント[5]ラジオパーソナリティ[6]映像作家脚本家[4]プラモデル原型師。後述の通り、2012年からは覆面レスラースーパー・ササダンゴ・マシンとしても活動している[1][3]

早稲田大学第二文学部中退、新潟大学大学院技術経営研究科修了[2]

会社経営者・プロレスラー・芸能活動(タレント[5]・ラジオパーソナリティ[6])等と多方面の活動を同時並行しながら務めていることから、「三足の草鞋を履く」[5][6]、「複数の草鞋を履きこなす」[1]と称されている。
経歴

新潟県新潟市浜谷町(現:東区)で金型工場を営む家系に生まれる。

新潟明訓高校時代は剣道部に所属していた。一方で映画監督漫画家にも憧れており、「ビッグコミックスピリッツ」で努力賞を受賞している。

一浪後早稲田大学第二文学部に進学。大学では「シネマ研究会」に所属して自主映画を製作する流れで、プロレスのドキュメンタリーを撮ろうと考え、アニマル浜口のジムの練習生となった。

後にDDTプロレスリングに参加し、在学中の2002年6月20日、DDT Club ATOM大会でのダーク・マッチで初登場を果たす。以来練習生として200試合以上をこなし、正式デビューに至らないまま(当時DDTの新人の登竜門であったスーパー宇宙パワー戦は2004年9月16日に経験しているが、雨のため大会は中止扱い、記録抹消)2003年1月4日にはアイアンマンヘビーメタル級王座に就くもすぐに脚立にタイトルを奪われるという失態を演じ、12月10日には当時の社長である一宮章一に映像班に専念することを言い渡された。

早稲田大学を中退した2004年7月31日後楽園ホール大会でスーパー宇宙パワー相手に正式デビュー戦。それに際し「マッスル坂井」と改名。その年の10月13日にはお笑い系プロレス興行「マッスル」をスタートさせる。

2005年には猪熊裕介、男色ディーノとのユニット「ドラマチック三銃士」で話題を博し、橋本友彦、男色ディーノとは昭和52年生まれ限定のユニット「B-52スペシャル」を結成する(橋本友彦のDDT退団により消滅)。2006年に入り頭をアフロにしたかと思うと大鷲透率いるDISASTER BOXに心酔してメンバー入り、「魔ッスル坂井」と名乗り解散後にマッスルに戻る。映像班も兼任。「DDTテック(現:TEC)」の社長でもあった。

2007年1月、今までDDTテックの社長ということでノーギャラでリングに上がっていたことに本人が気づいたため、DDTと初の選手契約を交わした。しかし、1試合当たり5000円のギャランティ契約であるらしい。

2007年6月3日、NOSAWA論外を騒音防止デスマッチで破り、DDTエクストリーム選手権第3代王者となる。

2008年4月、親しらずからバイ菌が入り、下アゴの骨が壊死しかけるという蜂窩織炎により緊急手術を行い、約3週間にわたり入院した。

2008年末の両国大会告知以降は映像班に専念し、2009年8月23日の両国大会を裏方として盛り上げる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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