マッサゲタイ
[Wikipedia|▼Menu]

マッサゲタイ(ギリシア語: Μασσαγ?ται Massagetai、ラテン語:Massagetae)は、紀元前6世紀から紀元前1世紀までその存在が確認される中央アジアの遊牧民および遊牧国家。カスピ海の東側に住んでいたと思われる。
歴史
起源

その起源は明らかではないが、ヘロドトスの『歴史』には「スキタイ人と同種であるとする人もいる」とある。また、「スキタイ人ははじめアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイ人に攻め悩まされた結果、アラクセス河[1]を渡り、キンメリア地方に移ったという。」と記されており、スキタイが東方からやってきたことを示し、マッサゲタイはそれよりさらに東方にいたことを示唆している。

[2]
ヘロドトスの記録マッサゲタイ女王トミュリス

アケメネス朝キュロス2世(在位:紀元前550年 - 紀元前529年)はバビロン人を征服すると、今度はマッサゲタイ人をも配下に収めたくなった。当時マッサゲタイでは、夫に先立たれたトミュリスという名の女性が女王であった。キュロスは使者を通じ、自分の妻に迎えたいと称してこの女王に求婚した。しかしトミュリスは、キュロスが求めているのは自分ではなく、マッサゲタイの王位であることを見抜き、彼の来訪を拒絶した。キュロスは計略が成功しないのをみてとると、アラクセス河[3]畔に兵を進め、公然とマッサゲタイ攻撃の準備をはじめた。軍隊の渡河のため、河上に船橋を組み、渡河用の船の上に櫓を築かせた。この作業を進めているキュロスのもとへ、トミュリスは使者を送って次のように伝えさせた。「どうしてもマッサゲタイと一戦を交えることをお望みならば、手間をかけて河に橋を渡すようなことは止め、我らが河岸から三日の行程で退いた後、河を渡って我が国に入られよ。もしくは我らを貴国内に迎え撃つことをお望みならば、そなたの方も我らと同じようにされたい。」これを聞いたキュロスはペルシア軍の主だった者に召集を命じ、集まった一同に事の次第を告げ、二つのうちいずれかの道をとるべきかを協議した。そして一同の意見は、トミュリスとその軍を自国に迎え撃つべしという説に一致した。しかし、元リュディア王のクロイソスだけがこの説を非難し、これと反対の意見を述べてこういった。「まず、我が陣地に肉のほか生酒も壺にたっぷりと入れ、その他あらゆる料理をそろえておきます。そうしておいて我が軍の最も劣弱な部隊だけを残し、他の者は河の縁まで退きます。もし、私の考えに誤りなくば、敵はこの沢山の御馳走を目にして必ずそこへやってきます。それからあとは我が軍が大いに手柄を表すばかりとなりましょう。」このようにして二つの意見が対立したが、キュロスは最初の説を棄ててクロイソスの意見をとり、トミュリスには自分の方から渡河して向かってゆくから、そちらは退くようにと通告しておいた。こうしてキュロスは麾下の軍隊と共に渡河した。

キュロスはアラクセス河から一日の行程を進んだあと、クロイソスの献策を実行した。準備を整え、キュロスと戦闘部隊だけを残して本隊はアラクセス河に引き上げると、マッサゲタイ人はその部隊の三分の一の勢力でキュロス軍の残留部隊に襲いかかり、抵抗するペルシア人を殺したが、用意された食事を見ると座り込んで食べ始め、腹いっぱいに平らげてしまった。ペルシア軍はマッサゲタイ人が満腹状態で酔いつぶれているところへ襲いかかり、その多数を殺したが、捕虜にした人数はさらに多く、その中にはマッサゲタイ人を指揮していたスパルガピセスというトミュリスの息子もいた。トミュリスは自軍と息子の身に起こったことを知らされると、使者をキュロスのもとへ送り、次のように伝えた。「マッサゲタイの三分の一もの部隊に狼藉を働いたそなたであるが、その罪は問わぬゆえ、私の息子を返し、この国を去れ。さもなければ、マッサゲタイ族の主なる日の神に誓って言うが、血に飽くなきそなたを血に飽かせてしんぜよう。」トミュリス女王(左から6人目、ティアラをした女性。ピーテル・パウル・ルーベンス作)紀元前2世紀頃のマッサゲタイ人の位置。

この口述が伝えられても、キュロスは全く気にもかけなかった。一方、スパルガピセスが酔いから覚めて自分がどのような悲運に陥ったかを覚ると、縛りを解いてほしいと言ってきたので、キュロスは縛りを解いてやった。しかし、すかさずスパルガピセスは自決して果てた。

一方トミュリスは、キュロスが耳を貸さないと知ると、麾下の全兵力を集めてキュロスと戦った[4]。まず、両軍は距離をおいて互いに弓矢で応酬していたが、やがて矢を射つくすと、槍と短剣でもって激突し、混戦となった。長時間にわたって戦い、互いに譲らず、双方ともに退こうとしなかったが、遂にマッサゲタイ軍が勝利し、ペルシアの大部分はここで撃滅され、キュロスも戦死した。

トミュリスは人血を満たした革袋を持ち、ペルシアの戦死者の間からキュロスの遺骸を探し当て、その首を取って革袋の中へ投げ込んだ。かく遺骸を辱めながら女王は言った。「私は生きながらえて戦いには勝ったが、所詮は我が子を謀略にかけて捕えたそなたの勝利であった。さあ約束通りそなたを血に飽かせてやろう。」

[5]
アレクサンドロスの時代

紀元前329年頃、アレクサンドロスヤクサルテスシルダリヤ川)河畔で砦を建設している間に、元ベッソスの側近であったスピタメネスが配下のソグディアナ人,バクトリア人とともにマラカンダ(サマルカンド)で反乱を起こした。これに対しアレクサンドロスはすぐさま鎮圧に向かい、スピタメネスらをマラカンダから駆逐した。その後、スピタメネスらはマッサゲタイ人の土地へ逃れ、そこで補給と騎兵600を手にすると、マッサゲタイ人とともにバクトリアネ地方を襲撃した。この時、ザリアスパ(バクトラ)守備にあたっていたキタラ奏者のアリストニコスを戦死させ、ソシクレスの子ペイトンを捕虜とした。これに対し、マケドニアのクラテロスは全速力でマッサゲタイ人に迫り、マッサゲタイ騎兵と戦って勝利するが、その大部分を逃がしてしまう。その後もスピタメネスは至る所へ出没したが、遂に周辺のスキタイ[6]3千を味方につけ、ソグディアナ攻撃にかかった。アレクサンドロスの命により、ソグディアナの守備を任されていたのはコイノスであり、彼は反乱軍が迫ってくるのを知ると配下の部隊を率いてこれを迎え撃った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:22 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef