マックス・ボルン
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マックス・ボルン
マックス・ボルン
生誕 (1882-12-11) 1882年12月11日
ドイツ帝国ブレスラウ
死没 (1970-01-05) 1970年1月5日(87歳没)
西ドイツゲッティンゲン
居住 西ドイツ、ゲッティンゲン
市民権 ドイツ イギリス
研究分野物理学
研究機関フランクフルト大学
ゲッティンゲン大学
エディンバラ大学
出身校ゲッティンゲン大学
博士課程
指導教員カール・ルンゲ
他の指導教員ヴォルデマール・フォークト
カール・シュヴァルツシルト
博士課程
指導学生ヴィクター・ワイスコフ
ロバート・オッペンハイマー
ロータル・ヴォルフガング・ノルトハイム(英語版)
マックス・デルブリュック
ウォルター・エルサッサー
フリードリッヒ・フント
パスクアル・ヨルダン
マリア・ゲッパート=メイヤー
ハーバート・S・グリーン(英語版)
程開甲
ジークフリート・フリューゲ(英語版)
エドガー・クラン(英語版)
モーリス・プライス(英語版)
Antonio Rodriguez
バーサ・スワールズ(英語版)
Paul Weiss
彭桓武[1]
他の指導学生エミール・ウォルフ(英語版)
主な業績ボルン・ハーバーサイクル
ボルンの剛体(英語版)
ボルン近似
ボルン-オッペンハイマー近似
ボルンの規則
主な受賞歴ノーベル物理学賞(1954年)
ヒューズ・メダル(1950年)
マックス・プランク・メダル(1948年)
配偶者Hedwig (Hedi) Ehrenberg(1913 - 1970年、子供3人)
署名
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1954年
受賞部門:ノーベル物理学賞
受賞理由:量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱

マックス・ボルン(Max Born, 1882年12月11日 - 1970年1月5日)は、ドイツ理論物理学者1954年ノーベル物理学賞を受賞。
生涯

ドイツ東部シュレージエン地方のブレスラウ(現・ポーランド領ヴロツワフ)にユダヤ系の家庭に生まれる。父グスタフ・ボルン(1851 ? 1900)は、ブレスラウ大学の解剖学と発生学の教授であった。チューリヒ大学ゲッティンゲン大学などで学んだ。1919年からベルリン大学助教授となり、フランクフルト大学を経て、1921年ゲッティンゲン大学の教授となる。1926年量子力学の確率解釈(統計的解釈)を発表。同胞のロバート・オッペンハイマーと共に「ボルン-オッペンハイマー近似」(ボルン近似とも)と呼ばれる近似法を編み出す。教育者としてもマックス・デルブリュックフリードリッヒ・フントパスクアル・ヨルダンマリア・ゲッパート=メイヤー、ロバート・オッペンハイマー、ヴィクター・ワイスコフらを指導した。

1933年にはドイツでナチス・ドイツが興隆し、ユダヤ人排斥運動によりボルンは教授職を解雇され、同年5月にドイツを離れた[2]。その後、家族を連れて渡英しケンブリッジ大学講師・エディンバラ大学教授に就任する。1939年王立協会フェロー選出。

第二次大戦後の1948年にはマックス・プランク・メダルを、1950年にはヒューズ・メダルを受賞された。1953年エディンバラ大学退職後西ドイツに戻り、ニーダーザクセン州温泉地であるバート・ピルモントに居住[3][4]1954年、量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱によりノーベル物理学賞を受賞した。1957年ゲッティンゲン宣言オットー・ハーンカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーウェルナー・ハイゼンベルクらと共に発表して西ドイツの核武装に反対した[5]1970年ゲッティンゲンで死去。墓所はマックス・プランクも眠るゲッティンゲン市立墓地(ドイツ語版)にある[6]

1973年にマックス・ボルン賞(英語版)がドイツ物理学会とイギリス物理学院によって設けられた。アメリカ光学会においても、マックス・ボルン賞(英語版)が1982年に設けられた。
逸話

オッペンハイマーとおなじく同胞のアルベルト・アインシュタインとの親交も厚く、ラッセル=アインシュタイン宣言にも名を連ねている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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