マッキンリー大統領暗殺事件
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レオン・チョルゴッシュが隠し持ったリボルバーでマッキンリー大統領に発砲する瞬間

マッキンリー大統領暗殺事件(マッキンリーだいとうりょうあんさつじけん、英:William McKinley assassination)は、ニューヨーク州バッファローのテンプル・オブ・ミュージックで、1901年9月6日に発生した事件。

ウィリアム・マッキンリー大統領はバッファローで開催されていたパン・アメリカン博覧会に出席しており、無政府主義者レオン・チョルゴッシュに2度銃撃された。マッキンリーは当初傷から回復しているように見えたが、狙撃から6日後に容態が急変し、9月14日に死亡した。副大統領セオドア・ルーズベルトが大統領職を継いだ。マッキンリーは暗殺されたアメリカ合衆国大統領4人のうちの3人目であり、その前は1865年エイブラハム・リンカーン1881年ジェイムズ・ガーフィールドがおり、後には1963年ジョン・F・ケネディがいる。マッキンリーの暗殺後、連邦議会はアメリカ合衆国シークレットサービスにアメリカ合衆国大統領身辺の護衛を公式に課することになった。
博覧会でのマッキンリーテンプル・オブ・ミュージックに到着するマッキンリー

マッキンリーとその妻アイダ・マッキンリーは、その栄誉を称えるために「大統領の日」とされた9月5日に博覧会場に到着した[1]。その日に予定された行事には私的な歓迎会と観兵式[2]、およびマッキンリーによるスピーチが含まれていた[3]

6日の朝、マッキンリーはナイアガラの滝を訪れ、その午後に予定されていた公開の歓迎会に出席するために博覧会場に戻った。秘書官のジョージ・コーテルユーはそのような公開の歓迎会は大統領の安全を脅かすものと思い嫌っていた[4]。コーテルユーは大統領に歓迎会を外すよう提案したが、マッキンリーは「なぜそうすべきなんだ?誰も私に危害を加えようとは望まないよ」と答えた[5]。マッキンリーはコーテルユーと博覧会の会長ジョン・ミルバーンに伴われ、午後3時半に博覧会場に到着し、歓迎会が行われるテンプル・オブ・ミュージックに入った[5]

1865年に偽札防止のために設立されていたアメリカ合衆国シークレットサービスは、1901年時点でアメリカ合衆国大統領を護衛するという公式な任務は無かった。しかし、シークレットサービスは既に1894年以来、マッキンリーの前任者グロバー・クリーブランドの時から非公式に時に応じた護衛を行っていた[6]。シークレットサービスはその日も大統領を守るためにそこにおり、他に地元バッファローの探偵達と、群衆に目を付けておくよう指示された11人からなる兵士の班がいた[7]。マッキンリーはコーテルユーとミルバーンに挟まれて立ち、長い列を作っていた人々と握手をしていた。その列の中にレオン・チョルゴッシュがいた。
暗殺者レオン・チョルゴッシュの顔写真。狙撃の翌日に撮影。

チョルゴッシュは1873年ミシガン州デトロイトで、ポーランド移民の息子として生まれた。一度は工場労働者になっていたが、1901年時点では数年間無職であり、家族と共に住んでいた。マッキンリー暗殺の数年前から無政府主義に興味を抱くようになった。1901年5月、オハイオ州クリーブランドで開かれた有名な無政府主義者エマ・ゴールドマンの講演会に出席した。6月12日にはゴールドマンの自宅があるシカゴに旅して、ゴールドマンが列車に乗って立ち去るまでの短時間話をした[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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