『マッカートニー』
ポール・マッカートニー の スタジオ・アルバム
リリース1970年4月17日 (1970-04-17)
録音1969年12月 (1969-12) - 1970年3月 (1970-3) McCartney's home London, Abbey Road Studios, Morgan Studios
ジャンルロック
時間35分5秒
レーベルアップル/EMI
プロデュースポール・マッカートニー
専門評論家によるレビュー
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ポール・マッカートニー アルバム 年表
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ふたりだけの窓
(1967年 (1967))
マッカートニー
(1970年 (1970))
ラム(ポール&リンダ・マッカートニー)
(1971年 (1971))
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『マッカートニー』(英語: McCartney)は、1970年に発表されたポール・マッカートニー初となるソロアルバムである。邦題は『ポール・マッカートニー』である。
ジャケットはマッカートニーの妻で、写真家としての活動も行っていたリンダ・マッカートニーによるもの。表ジャケットはドレンチェリーの写真で、裏ジャケットには長女のメアリーを抱いたマッカートニーの写真となっている。 ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』の発売を直前に控えていた1969年9月20日、キャピトル・レコードとの契約書に署名をするため、アップル・コアにメンバー4人が集合した。その際、ジョン・レノンがビートルズから脱退する旨を伝えた[1]。当時のマネージャーのアラン・クレインはビートルズの契約交渉を有利に進めるためにレノンのこの発言を公にしなかったが、以降はレノン以外の3人による『レット・イット・ビー』の追加録音(1970年1月3日から1月4日)等が行われたのみで、グループの活動は完全に停止した[1]。 レノンは妻のオノ・ヨーコらと共に新たにプラスティック・オノ・バンドを結成して活動を行ったほか、ジョージ・ハリスンはデラニー&ボニーのツアーに参加するなど、それぞれがソロ活動を開始していった。 レノンによる突然の脱退宣言後、ビートルズの「解散」という事態に直面して精神的に傷ついたマッカートニーは、家族を連れてロンドンを離れ、スコットランドのキンタイア岬に所有していた農場で引き籠った[注 1]。マッカートニーは髭を剃らずに一日中ベッドから出ず、酒に溺れただけでなく、時にはヘロインにまで手を出した[2]。だが、マッカートニーは妻であるリンダに支えられて立ち直り、自身初となるソロアルバムの制作を始める。1969年末、マッカートニーはロンドンへ戻ると、自宅に4トラックの機材を導入し、翌年初め頃から本格的に録音を開始した。大部分は前述の通り、自宅で制作が行われたが、一部の作業はロンドンのモーガン・スタジオ
解説
全ての楽器をマッカートニーが演奏し、リンダは一部の曲のバッキング・ヴォーカルに加え、「クリーン・アクロア」で呼吸音を担当している。完成後、マッカートニーは『レット・イット・ビー』よりも早急に自身のアルバムを発売するようクレインに要求したという。しかし、クレインは『レット・イット・ビー』の発売を優先させるため、本作の発売日を遅らせようと試みる[4] 。そして、1970年4月11日、この件について説明するため自宅を訪れたリンゴ・スターをマッカートニーは激しい言葉で追い返してしまう[5]。マッカートニーは「僕はスターに帰れって言ったんだ。僕は沈んでたから、自分を主張するためにあんな事をしなきゃならなかったんだ...。とにかく頭の中を殴られてたんだ」と後に語っている[6]。
最終的にマッカートニーの思いを知ったスターの説得により、クレインらは『レット・イット・ビー』発売1か月前の発売を許可する。また、同年4月10日にマスコミ用に配布されたサンプル版に添付した質疑応答でマッカートニーは「ビートルズの活動休止の原因は、個人的、ビジネス上、及び音楽的な意見の相違によるもの」、「レノンとの共作活動が復活することはない」[7]とビートルズからの脱退を表明し、その1週間後の4月17日に本作を発売した。アメリカでは4月20日に発売された(日本では6月25日発売)。マッカートニーより前にビートルズから正式に脱退していたレノンは、アルバム発売と合わせて発表されたマッカートニーの脱退宣言を「ポールはNo.1のPRマンだ」と皮肉交じりに攻撃し、以後数年に渡って険悪な関係に陥った[1]。
このアルバムは全英2位を獲得、アメリカの「ビルボード」誌では、3週連続最高位第1位を獲得、1970年度年間ランキング第27位、「キャッシュボックス」誌でも、3週連続最高位第1位を獲得し、1970年度年間ランキング第9位を獲得、アメリカだけで200万枚以上のセールスを記録している(日本では、オリコンチャートで最高13位を記録した)。商業的には成功しているが、簡潔な音作りであること、また、収録曲の半分がインストゥルメンタル・ナンバーであることなどから、マスコミの酷評する声も少なくなかった。しかし、マッカートニーならではの美しいメロディー、彼のパーソナルな部分を垣間見ることの出来る作品、宅録の先駆けとも呼べる作品としても再評価されている。
本作からのシングル・カットはなく、1971年2月発表の「アナザー・デイ」が、マッカートニーのファーストシングルとなった。1977年にはウイングスの音源による「恋することのもどかしさ」が、邦題を「ハートのささやき」に変更しシングル発売され、全米10位を記録している。
2011年6月14日(日本は8日後の6月22日)、「ポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション」と題したバージョンが『マッカートニーII』と共に発売された[注 3]。こちらは、2011年最新のデジタルリマスタリングが施され、通常盤と、未発表となっていた「スーサイド」「ウーマン・カインド」などのデモ音源7曲を収めたCDが付いたデラックス・エディション、さらにウイングスの最後のライブ出演となった1979年の『カンボジア難民救済コンサート』、1991年に放送されたMTVの音楽番組『MTVアンプラグド』出演時の映像等を収めたDVD及び、リンダの未発表写真等を纏めたハードカバーブック付きのスーパー・デラックス・エディション、そして海外のみでアナログ盤が発売された。
また、ジョージ・ハリスンは1970年のインタビューで、「『ザット・ウッド・ビー・サムシング』と『恋することのもどかしさ』は素晴らしいと思うし、他の曲はまあまあだと思うよ。でも、がっかりしないほうがいいかもね。何も期待しない方がいいし、そうすれば全てがボーナスになる。この2曲はとてもいいと思うし、他の曲は僕には何の役にも立たない。」と語っている[8]。