マチュ・ピチュの歴史保護区
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、世界遺産リスト登録物件について説明しています。都市遺跡については「マチュ・ピチュ」をご覧ください。

マチュ・ピチュの
歴史保護区
ペルー

マチュ・ピチュの都市遺跡
英名Historic Sanctuary of Machu Picchu
仏名Sanctuaire historique de Machu Picchu
面積32,592 ha[1][注釈 1]
登録区分複合遺産
IUCN分類III(天然記念物)[1]または
V(景観保護区)[2][注釈 2]
登録基準(1), (3), (7), (9)
登録年1983年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示

マチュ・ピチュの歴史保護区(マチュ・ピチュのれきしほごく)は、ペルークスコ県にあるマチュ・ピチュ遺跡と、その周辺を対象とするUNESCO世界遺産リスト登録物件である。マチュ・ピチュ遺跡はインカ帝国時代の遺跡の中では保存状態がきわめて良く、それに加えて周辺の自然環境は優れた景観の中に絶滅危惧種危急種をはじめとする重要な動物相植物相を含んでいることから、1983年に複合遺産として登録された。総面積は約326km2で、そのうち都市遺跡部分は約5km2である[3][4]
文化的側面詳細は「マチュ・ピチュ」を参照

マチュ・ピチュの都市遺跡の発見は1911年のことであった。かつてインカ帝国スペインに攻略された際に、莫大な財宝が運び込まれたとされる伝説の都ビルカバンバを探していたアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムは、地元の少年を案内役に雇い、クスコ北西約70 km 付近のウルバンバ川流域を調査した折、急峻な斜面を登った場所でこれを発見したのである[5][6]。ビンガムはこれこそがビルカバンバであったと主張したが、現在では否定されている[注釈 3]

マチュ・ピチュはケチュア語で「年老いた峰」を意味し、「年若い峰」を意味するワイナ・ピチュへと連なる尾根の部分に都市が建設された[4]。マチュ・ピチュ自体の標高は2,795mで2,667mのワイナ・ピチュよりも高いが、ワイナ・ピチュを仰ぐ尾根に建設された都市遺跡の標高はおよそ2,430mである[7][注釈 4]。建設された年代は石段の組み方などをもとに1450年ころと見積もられており[8][4][9]、人が住んでいたのはそれからおよそ1世紀の間だったとされている[4][注釈 5]。文字の記録がないため、この都市の建設目的は諸説あるが、現在では、第9代皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられている[10]。かつては人口1万人規模とするものもあったが、現在では否定されており[11]、ペルー文化庁の専門家たちには、常住人口500人と見積もっている者たちもいる[12]都市遺跡の地図(左側が北)

都市遺跡は北部(北西部)には様々な建造物群が並び、南部(南東部)にはアンデネスとよばれる段々畑が築かれている[13][14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef